おふとんの日常

blue-pink-sky’s diary

久々に雑記。ちょっとだけ。

 

昨日、部活のライブがあった。昨日のライブは新しく入った(と言ってももう年度も終わりかけだが)1年生がメインのライブで、外向けではなく内部向けお披露目会といったところである。気付けば大学も4年目が終わろうとしており、コロナ前の記憶はまだ1年生、先輩しかおらずがむしゃらに頑張っていればそれが評価されたとき。ふとコロナ禍というタイムトンネルと抜けるとそこは突然ほぼ最年長者としての部活動がある世界。バンドの練習はなるべく声を出して意義のあるものにしなければならないし、後輩に技術を教えるだけではなくてメンタルのケアもしつつうまく仲良くなるように立ち回る。別にそれは僕にとってそこまで大変なことではないのだが。

 

昔、小学校から中学校に上がったとき(本当は育ちが特殊で厳密には異なる状況だが分かりやすくするためにこう書く)、それまで小学校の最上級生としてエッヘンしていたのに急に周りには自分より一回りも二回りも大きな人だらけになり部活でも先輩ばっかり、勉強面も身体面も精神面も自分たちが最も幼いという環境におかれるなんて、随分と変な感覚だなと思ったのを覚えている。僕は中高一貫出身なので中学から高校に上がった時はその感覚はなかった。でも当時の僕は小学校から中学校に上がった時は成長期で、周りの人(他学年の人)が自分と大きく異なるからそう感じるのだと思っており、大学に入ってしまえばそんなものは関係ないと思っていた。なにしろ大学と言えば年齢と学年が全く一致しなくなるような場所であるから。

 

ところが昨日のライブを見て、その前のバンド練習を見て、そんなことはないなと実感した。1年生は僕らにはない活力を持っている。技術はそりゃ上級生の方が上かもしれないが(まあそれも人によっては上級生と同じレベルの技術を持つすごい新人もいるんだけど)、練習に一生懸命、新しいことに取り組む意欲も大きく、発言がいちいち若々しい(嫌味ではなく)。大学生がよく「もう私21だから~~」とか「え?!まだ成人してないの?!やだ私オバサンじゃん!」とか言うのを聞くが、この気持ち、歳を取ると意味が分かってくる。確かに物理的にはそんなに違いないのかもしれないが、メンタルとかが何か違う気がする。どうかようやくコロナ禍の影響を少しずつ受けにくくなってきた時期に入学してきた今の1年生(それでもうちの大学は非常に厳しい方)にはどうかその「キラキラ」を忘れずに大学生活を送ってほしいなどと無理難題を押し付けたくなるのであった。

 

最近は何かにつけて自分の年齢を自覚することが増えた。上の文章の文脈では歳を取ることを悪であるかのように書いたが、決してそれだけではなく自分を客観的に見たときに、あくまで客観的事実として年齢を重ねたことを実感する、という話である。何しろあんなに最近に思える高校卒業からですらもう4年、昔と比べてあらゆることが変わった。もちろん自分のこともそうだし、周りの環境要因もそう。例えばコロナ禍。例えば自分の勉学や偏差値に対する考え方。例えば自分の経済力。例えば親の年齢。自分の味覚の変化みたいな些細なこともそうだ。今年度は夏から今にかけて、失った体力の再獲得を目標に頑張ってきたので何も高校時代出来たことが物理的にできなくなったかと言われるとそうでもない気はする。今でもそこそこには走れるだろうし、なんなら足腰は強化された気はする。でも、昔みたいな無邪気な気持ちで色んな事に手を出してみたり、無責任に何かを始めてみたりすることは今は出来ないと思う。それは正直高校までは「教育を与えられて当然」という考え方があったので、一切の責任を自分で背負うことなく好きなことができたからだと思う。例えば遊び惚けて浪人したら親が浪人させてくれる、そんな風に考えていたから。でも国立とはいえ大学に通い一人暮らしをしアルバイトを経験し留年まで経験した今、金銭の価値、時間の価値、親の自由、自分に掛けられている期待やお金...諸々を考えて昔のように無責任にはいられない。例え親に余計なお金をかけたとしても、それを「余計」ではあっても「無駄」にはさせないくらいの責任が僕にもある。お金を稼ぐというのは大変なのだ。

 

また「出来なくなったこと」の文脈で書いてしまったが別に出来るようになったことやニュートラルな変化もそう。例えば一人暮らしをしてちょうどもう4年が経過したが、僕は大変適応が遅かったので実に3年半、住んできた家にして3軒かけてようやくまともな一人暮らしが営めるようになった。と言っても自炊はしないし別に部屋もそんなに綺麗じゃない。でもそれでも最低限の生活がこなせるように、優先度をつけて、しかもなるべく簡単に事が済ませられるように考えて家事をこなしている。(ちなみに家事の優先度は 洗濯>>>>>掃除=飯 であり、僕は最低限度として白米だけは炊くようにしている。)コロナ禍と色々上手くいかないことが重なった大学2年次なんて1日0食当たり前、みたいな生活をしていた。それに比べたら今は随分人間らしい生活が出来るようになったものだ。

他にも客観的に自分を見られるようになった。散々精神面で2年間悩まされてきて、自分のどういうところがそういう結果に繋がったのか、逆にどうしたら上手くいくのかをひたすら考えるうちに自分に対する考察が非常に深まったと思う。今では大学入りたての頃に比べて自分との付き合い方が上手くなったなと感じる。あとは友達への考え方。元々友達のことは大好きだしなるべくことあるごとに感謝を伝えてきた。でも高校時代の僕は常に人に囲まれていて大層幸せな生活を送っていた。大学に入って色んなことを経験し、慕ってくれる人(同級生であれ先輩後輩であれ)の存在は本当に「有難い」ことであることを真の意味で知ることができた。

些細なことでいくなら味覚の変化。元々食が大好きで母親の手料理が一番好きではあったが、その中でも自分で料理をちゃんと経験する(趣味で料理ができることと生きるための自炊をすることは全くもって持つ意味が異なる)こと、一人暮らしで食事があることのありがたみを実感することで食の好みが少し変わった。と言っても好きなものはずっと好きで、別にそうでもなかったものが大好きになった。生野菜なんか(生に限らず野菜は全般そうだけど)自分ではそう簡単に食べられない。外でサラダなんか頼んだ日には500円取られる。元々どちらかと言えば温野菜派だったが、実家に帰った時には生野菜のサラダを好んで出してもらっている(母親の料理も年々進化しておりサラダひとつとっても絶対においしくなったのはそう)。外食するときもメニューの選び方がなるべく(せこいが)原価の高そうなもの、自分では作れないものから選ぶようになった。

 

まあまあこんな感じで大学生になってから本当に様々なことを経験してきた方だと自分では思う。友達ができたり友達を失ったり、告白されたり告白したり、振ったり振られたり、精神面で上手くいくときも参るときもあり、成績いいときがあれば最悪なときもあり。

色んな事を経験するというのは河原の石である。ゴツゴツしていた石が川の流れに、時には石同士で削られどんどん丸くなっていく。とはいえ僕はまだ人生という川の上流、所詮20歳そこらで全てを達観したような目線でいるのははっきり言って生意気で馬鹿馬鹿しい。責任や所属と言った社会の沼に片足を取られながらもまだまだ上半身は動く。右足が使えなくなっても左足でボールを蹴ればいい。僕のTwitterのTLには日々鬱々としたツイートが流れてくる。そりゃ泣き言を言いたくなる時もあるのはそうだがいつまでも泣きごとを言っていても何も進まない。誰からも助けがなくもがき苦しんでいるなら環境が悪いが献身的な友達に囲まれているのに永遠にネガティブなことを言ってもそれは自分を悲劇のヒロインと重ねて陶酔しているのと何ら変わらない。ネガティブなことしか言わない人に近づきたい人がどれくらいいるだろうか。

今回のライブで見た後輩たちの「キラキラ」を忘れずに、僕も少しでも、それがどんなに鈍い色だったとしても光を放てるようになりたいと思った。そうすればまた僕の周りにいる人も少しでも輝けるから。

 

 

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少しだけ補足。最後のパートのことなんですが、辛く思うことや苦しいことを否定しているわけではありません。人間誰だって苦しいときはあります。何を苦しいと感じるか、その閾値は人それぞれなので他人がそれを見て「あんなことで苦しんでるなんて、俺なんかもっと大変なこと抱えてるのにさ」みたいなことを言うのは何も筋が通っていません。それは最もあってはならないことです。それに辛いときに辛い気持ちを抑圧するのも良くないと思います。苦しいときは苦しい、そうちゃんと口に出せることは大切なことです。

上で書いたことは、「辛いときに辛いと言うな」ではなくて「辛いことが永遠に続いているように錯覚するな」です。本当は毎日の生活の中にも楽しいことや嬉しいことはあるはずです。それなのに「一度あった」「昔の」辛いことをいつまでも語っていては先に進めないのです。本当に辛いなら第三者の助けを求めるのだっていいでしょう。あなたは一人じゃないはずです。助けの手を差し伸べてくれていた人だって周りにはいたはずです。もし本当に独りぼっちなら今すぐ心理士や精神科医などの手を借りましょう。もし周りに人はいるけど助けてくれないと感じているならよっぽど周りの人がいじわるか、差し伸べられた手を自分で振り払ってしまったかだと思います。

 

Twitterを見ていて思うのは、鬱々としたツイートが並ぶ人とそうじゃない人の差は「楽しかったことを言葉で楽しかったと書けるかどうか」な気がします。例えばドライブに行ったとして、前者の人は「疲れた」や「渋滞がすごかった」などとツイートし、後者の人は「楽しかった」や「渋滞してて疲れたけど〇〇行けて満足」などとツイートするような気がします。人間言葉にするとその通りに心が認識するらしく、一度ネガティブなことを発信し始めるとポジティブなことを考えられなくなるようです。まずは良かったこと、楽しかったこと、嬉しかったことを日々の些細な出来事から見つけられると少し生きるのが楽になるのではないかと僕は思っています。皆さんの健やかな毎日を応援しております。賛否両論ありそうな書き方をしたので燃えないか非常にヒヤヒヤしていますがまあ良しとしましょう。ちなみにアンチコメはやめてね!小心者なので!

結局4000字越えですがご覧いただきありがとうございました。