おふとんの日常

blue-pink-sky’s diary

前に進むということ

前に進むということはどういうことだろう。

 

前に進むことを考えるのであればまずは「前」を定義したい。前、というのは後ろの反対である。当たり前かもしれないがこれだけだ。何を軸に前後と呼んでいるのかはそれぞれだと思うが、後ろがあってそれに対しての前、ということだ。

 

一般に前後の軸で物事が語られるとき、その軸は物理的または経時的な変化を指すことが多いと思う。物理的な前後は語るまでもないとして、後者はつまり時間が関連している何かを軸として見ているということである。人は生まれたときから常に逆らうことのできない時間という流れの中で溺れている。そういう意味で考えると「前に進む」ことは「時間が前に進むこと」つまり「生きること」とも同義と取れる。

 

でももう少し踏み込んで考えると人が前に進むと言うとき、そのほとんどは自らの意思を持って「前に」進むことを指すのではなかろうか。言ってしまえば我々人類は自由意志に基づいてこの世に生まれたわけではなく気付けばこの世に存在し毎日を過ごすことを強制されているのだから、そう考えると生きることを前に進むことと同義にしてしまうのは少々乱暴なようにも感じられる。

 

「後ろ」と「前」は紛れもなく対義語であるが実のところ全ての物事を対義語で語れるわけではないことにも注意したい。だって負の数と正の数は真逆の存在であるが、正にも負にも含まれないゼロという数も世には存在しているのだから。時間軸に照らし合わせて考えるなら後ろは過去、前は未来、そうしたらゼロに当たる現在も存在しなきゃおかしい。

 

まあ難しく書いてはみたものの、前に進むことは結局時間という逆らえない軸の中で過去や現在を捨てて未来へと歩むことを指すと僕は考える。

 

社会において前進することは良しとされることが多い。戦時中だって撤退は悪、前進は良であったわけだし(それが本当に良いことなのかはさておき、客観的事実として)、会社や学校などのコミュニティでも新しい挑戦は高尚なものとして取り扱われることが多い。でも実は前進することはほとんどの場合「後退しないこと」と同義なのではなく「後退できないこと」と同義なのである。前へと歩みを進めようとするとき、私たちは過去や現在に色々なモノを置いていく。

 

別に前へ進むことが良くないだとかそういうことを言いたいわけではない。ただ単純に前進は楽ではないということが書きたいだけ。もっと平たく言えば怖いのである。

 

人間は選択する生き物である。合理的に考え自分の利益や社会の利益、集団の中でも自分の立場など様々なことを考慮に入れながら毎日数えきれない選択を繰り返している。例えば昨日の夕飯は何を食べただろうか。生姜焼きを食べるかラーメンを食べるかそれとも食べないという選択もまた選択の一つである(みんなご飯はちゃんと食べようね)。でも実は生姜焼きを食べると決めた自分の選択は同時にラーメンを食べていた将来の自分という存在を消去していることにもなるのである。我々人類は毎日選択をすることで無数の、いや無限の可能性を自らスポイルするのである(これがStar Trekで言うところの可能性の未来)。この可能性の消失は当たり前なことであってそれ自体に全く害はない。でももし、もし1mmでも自分で消してしまった可能性の未来の方が現在自分が歩んでいる未来よりも良かったかもしれないと思ってしまったなら、私たちは「後悔」という形で自分の選択を振り返るのである。つまるところ生姜焼きを食べた帰りに期限が今日までのラーメントッピング無料券が財布から出てきて「あぁ、ラーメン屋に行っていれば思い出せたかもしれないのに...」と後悔をする、という話である。

 

何を簡単なことを小難しく書いているんだと思うかもしれないが、新年度に新しい生活を迎え新しい環境で生きている僕にとっては毎日がとてつもない選択の連続であり、毎日自分のした選択が正しかったのか疑問を抱きながら生きることは大袈裟な文章で語りたくなるくらい結構大変なことなのである。

 

近頃自分が様々な方面において人生の岐路に立っている感じがする。趣味や友人関係、人間関係、自分の進路、やれること、やりたいこと、人生の目標や成し遂げたいこと...。モラトリアムの終了が少しずつ現実となって迫ってくるにつれ1年後、5年後、10年後、50年後の自分を想像しながら今何をするべきなのか必死で考えさせられる。そもそもここに至るまでの自分の選択が間違っていたという可能性も捨てきれはしない。

特に自分がやりたいことが複数個利益相反を起こしている場合は困ってしまう。どちらも自分がやりたいように通り過ぎることが出来る可能性が1%くらいあるとして、もし99%だったときにどうするか、じゃあ99%を避けるためにどちらかを諦めるのか、ならばどちらを諦めるのか。

 

これを読んで下さっている方の99.9%は僕が何を言っているのか見当もつかないと思うが自分の将来や自分の周囲の幸せを考えたとき、どうしてもつきまとう問題なのである。そもそも自分が幸せになるための手段として他人に迷惑をかけてしまうのは良くない。最大多数の最大幸福が社会的徳なのかもしれないが少しは自分も幸せになりたいと考える心もある。結局やりたいことなんて自分の理性じゃなく感情で動かされるものなのだから感情に全てを任せればいいという考えもあるが、少しずつ自分の年齢や立場が上がってくるにつれ感情に身を任せることの危険性、周囲に与える影響の大きさが重くのしかかりやがて雁字搦めになってしまうのである。

 

でも、最近大学の友達に言われた言葉がある。「やらない後悔よりやる後悔だよ」と。確かにどのみち後悔するのであれば、やるだけやって後悔すればいいというのも正論である。結局人間は生姜焼きとラーメンを同時に食べることは出来ないのだから、難しく考えないで食べたい方を食べればいい。そして「前」に進んだ暫く先から「後ろ」を振り返るときっと生姜焼きを食べた事実は美化された思い出となって思い出されるのだろう。

 

そもそもよくよく考えるとやらない後悔よりやる後悔だなんて、昨年1年間で僕が最も学び実践したことだったのに、人間は少しリスクが大きく見えるとすぐ日和ってしまう。こんなことで散々悩んでしまうのは脳みそを必要以上に大きくしてしまった神様や過去の人類のせいだなと思いつつ、また今日も僕は選択を繰り返すのである。