「枠」の自己目的化から逃れるために
久しぶりの雑記。
過去の記事でも話題に出したことがあると思うが大人になるとはどういうことなんだろうか。大人になる。大人。大人の定義とは。
GoogleのAIくんに聞いてみると「一人前の人間」や「社会的な責任を負える人間」「思慮分別がある人間」とか返ってくる。まあ当たり障りのない回答である。年齢的には18歳かまあ20歳以上を指すことが多いんだろう。僕は当然成人済み(僕は20で成人している)なのでこれによると大人の区分に入るらしい。でも経済的に自立は全くしていないしまだまだ半人前だし社会的な責任を負える人間ではないと思う。そもそも社会的な責任を負えるってなんだ。果たしてそんな人間はいるのだろうか。
僕は今、歳を重ね、自分より年下ばかりのコミュニティに身を置いている。年々当たり前のように自分が背負わなければならない責任は大きく重く積もるようになっていくし、年々下の子たちとのジェネレーションギャップも感じるようになってくる。でも一番年齢を感じるところはマインド面というか、まあ要は精神面での大人さかもしれない。それはもちろん20歳と25歳は5歳の差があるのだからそれ相応に大人びている度合いが違って当たり前なのだが、でも20歳の時の自分は随分大人になったと思っていたし、20歳くらいになればそれ以前のようにぐんぐん大人びていくことはない、精神的にある程度停滞するだろうと思っていた。でも10歳と15歳が大きく精神的に離れているように20歳と25歳も大きな隔たりがあるのかもしれない。
これだけ書くと大人びることが正義、若いやつは青くてガキメンタルだ、みたいに取られかねないがそういうことが書きたいわけじゃない。ただ単純に歳を重ねると物事の見え方が少しずつ変わってきたり感受性に変化があったりする、というだけの話だ。
僕は先日ひょんなことから高校生の頃から大好きだったアニメを見返した。内容はまあよくある青春もの、本当にそのアニメが好きでグッズも持っているし聖地巡礼もしたし見れば毎回涙を流していた。でもそこから何年か経って見返してみたら内容は面白いとは思うもののどちらかというと登場人物(高校生)の心情の若さというか、若さゆえの幼いところばかり気になってムズムズしてしまった。(誤解を恐れずに言うなら所謂「萌え」系アニメのキャラクターの精神年齢は実際の人間より若干幼く描かれていることが多い故に気になってしまったのだとは思う。)
重ねて書くが若いこと、幼いことが悪だとは全く思っていない。精神面で言えば僕は年齢にしては色んなことを経験してきてちょっと大人びている方だとは思うのでどちらかと言えば外れ値は僕の方かもしれない。そうは言っても歳を取って少しずつ変化してきた「今の僕の価値基準」に照らし合わせると(相対的)若い人たちの行動そのものやその背後に見える行動原理はちょっと若すぎて見ていて本当にただムズムズしてしまうときがあるのだ。よくある大学生の飲み会を大人が見て「あー若いねー」って言ったり、周囲に配慮せず帰宅中にキャッキャ騒ぐ高校生を大学生が見て「幼いねー」って言ったりするそれ、みたいなイメージだろうか。
ここではその「価値基準の変化」を大人になることと定義して、どうしてそうやって価値観は変化していくのかを考えてみる。歳を取ることで得られるものは経験値くらいだ。頭の回転は落ちるし記憶力も下がる、食欲も体力もあらゆる人間の能力値が下り坂に入るのに対し生きてきた分の経験値だけはちゃんと貯蓄されていく。そして(頑固に自分の考えだけに縛られて生きていけばこの限りでもないのかもしれないが、)普通は多くの人間との出逢いや別れに出くわすことになるだろう。そうして様々な自分の未知の価値観を発見したり気付かされたりする。お医者さんは怪我をしたら「それはお辛いですね」と声を掛けてくれるが本当の意味での痛みや辛さはその当事者もしくはそれ相応に近しい存在になってみなければ分かるはずもない。もし共感とか同情といった類の言葉で相手の気持ちや立場を真の意味で理解できるのであれば地球上に争いは起きないはずだ。
色んな価値観を知り世の中の様々な立場の人の意見や考え方を目の当たりにすることで、我々人間は新しい「恥」や「常識」、「配慮」、「分別」、「マナー」、「道徳」といった行動に制約をもたらす概念、枠を得るのであろう。具体例を出すなら飲み会でいつも酔っ払って楽しんでいた人が一度シラフで飲み会に参加してみたら、いつも自分の「楽しい」の裏で目立たないように水を用意したり片付けをしたり雑用をこなす人間がいることに気が付き次の飲み会からある程度自分で片付けをしたりせめて感謝をはっきりと伝えるようになる、みたいなことだろうか。
ここまでさも自分が世の中のすべてを理解しているような口ぶりで述べてきたがそんなことあるわけがない。僕だってもっと年上の人から見たら相応にガキだろうし未熟だろう。もっと言えば地球上の最高齢の人が全世界で最も多くの価値観に精通していて大人びているというわけでもない。その人の持つ価値観の豊富さは経験値のみならずその人の持つ柔軟性にも影響されるし、そもそも同い年の人間が全く同じ経験値を持つわけもないのだから。だから自分が世の中というものをどのくらい理解しているのか客観的にはさっぱり分からないのだが、そうは言っても僕はなるべく多種多様なモノの見方をできるようになっておきたいと思う。もし身の回りの大事な人が苦しんでいるときにその人の苦しみの根源をなるべく正しく見抜いてあげるにはそういう積み重ねしかないと思うから。
さて、じゃあ最初の話に戻って大人になるということ(の一つの指標)は経験を基に相手の立場も考えつつ自分の行動を制御できるようになること、ということになるだろう。別にこれ自体は間違っていないのだとは思うが、ここで一つ個人的に大事だと思うことがある。あくまでも経験を基に手に入れた価値観は自分の行動原理として基本的に「主観的」に考えるものであって「客観的」に使うものではないということだ。
最近のネットの流行りなのか知らないがYouTubeのコメント欄などでよく「冷笑主義」的立場の意見を見かけることがある。まあ字の如く相手の立場や主張を一歩引いて嘲笑ったり疑ったりするというものである。僕は思うのである、これはさっきから書いている自分の持っている価値観の「客観的」な押し付けではないか、と。
さっきの話に戻して、他人の考えや立場を理解するためにここまでの人生で獲得してきた価値観を用いる、このときに必要なことは(必要以上にはよくないが)相手の立場、つまり相手の「主観」で考えることだと思う。主観、という単語は元来一人称、自我を意味するので相手の主観、という用法は誤用とされそうだがここでは相手から見えている世界を最大限想像する、という意味でこの単語を用いる。(大前提としてこの想像が大きくずれていた場合は何の意味も成さないがここでズレが生じないために様々な価値観を手に入れる、という話なのでここではその議論はしない。)人間はだいたい自分たちで思っている以上に毎日を生きることで必死なわけで、そういうときにちょっと難題にぶち当たると他のことに対して目が行きにくいものである。例えば相手が多忙な時期に体調不良の兆候を感じているのに病院に行こうとしないならどう説得するだろうか。ここで相手に「今体調を崩したら仕事先にも迷惑がかかるし第一体調が優れないなら病院に行くなんて当たり前でしょ」と正論パンチをかまして相手が聞く耳を持つだろうか。言っていることは非常に正しいし、これもまた経験からくる「常識」や「配慮」という枠に照らし合わせて考えられている主張である(「体調不良の出社は逆に迷惑」や「体調不良なら病院に行く」)。でもこの「枠」の使い方は相手に対して全く寄り添っていない、いわば「客観的」な価値観の当てはめ方であろう。もしもこの相手に価値観を「主観的」に適用できたなら、「体調に不安があるなら早い方が早く治って仕事にも響きにくいし、もし病院に行って何もないって判断されたらその方が安心じゃん。それに僕としてもこのまま原因不明の体調不良を引きずっているのを見るのは心配だな。」という風な提案になるのではなかろうか。相手だって忙しいからこそ自分が会社を休んでしまっては申し訳ないという気持ちがあるだろうし、病院に望んで行きたがる人間はほとんどいない。だからこそ視点を変えて、「あなたが迷惑を掛ける」ではなく「迷惑を掛けるなら少ない方がいい」、「病院に行くのは当たり前」ではなく「行ってくれた方が自分が安心」という言い方にした方が相手の心には響くと思うのだ。客観性というものはデータの分析や原因の整理には役に立つスキルだが人間の心には響きにくい。だからこそ客観的に冷笑するのではなく、相手の目線で「主観的」に考えた言葉や行動が人間社会では価値があると思うのである。客観的に達観や諦観して物事を自分の中で判断することは悪くないことだと思うがそれを相手にまで押し付けてしまうのはもはや新しくゲットしたポケモンカードを見せびらかしたいだけのお子様になってしまう。価値観という「枠」を用いることが目的となってしまうのではなく、あくまでも価値観は「主観的」に判断する手段に過ぎない、という話である。
僕は振り返ってみると一つ大人の指標として掲げられる20歳になったときと現在では今の方が随分色んな考え方を知って色んな行動原理を手に入れたと思う。でも、だからと言ってそれを客観性と共に振り回していては人間社会の道徳やマナーには適合していても誰からも愛されない人間が出来上がってしまう。そもそも「枠」を手に入れたからと言って自らその枠で自分を囲ってしまっては動物園の動物と何も変わらない。高級レストランのコース料理は美味しい。だがファミレスがそれより味が劣るからと言って悪と決めつけるのは違う。ファミレスを愛して通いまくっていた頃の自分のメンタリティを記憶から掘り出せば何がそんなに自分たちを惹きつけてやまなかったのかを思い出せるはずだ。肝要なのは「枠」に縛られることではなく「枠」を必要に応じて操ることのできる思慮深さなのではないだろうか。
特に年下との関わりが非常に多い僕にとって、今の自分よりもうちょっとだけ幼かった頃の自分の精神性を忘れずに、でも時に立派な大人として生きることこそが周りの人間との最大の調和をとるために大切なことなのかもしれない。大人になることは大事だし、必要なときに大人になれることはこの歳になると必要なことだ。でも、それでも、僕は「枠」に囚われない童心をいつでも呼び出せるように大切に心の中で磨いておきたいと思う。