おふとんの日常

blue-pink-sky’s diary

ブログトップ(自己紹介などなど)

こんにちは。おふとんと申します。随分当ブログも開設から長くなりましたがそういえばブログトップの記事を用意していなかったことに気が付いて今さらながらここに記しておきたいと思います。

 

実は開設時の記事にそれっぽいのを書いてるんですがまあそれはそれというかその頃から変わったこととかもありますのでダラダラ書いていきましょう。

 

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春雨、灰色

長い冬を抜けた東京の街に待っていたのは春雨。

ぐずぐずと名残惜しそうに居座る寒さに痺れを切らした桜も今度はしとしとと降る春雨の洗礼を受ける。

どこまでも灰色の景色の中にあってはせっかくの桜も灰色に染まっているようだった。

 

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<Nikon Z7+Z28mmF/2.8>

 

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<Nikon Z7+Z28mmF/2.8>

 

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<Nikon Z7+Z28mmF/2.8>

 

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明けましておめでとうございます(ゑ)。

実は昨年2023年は最低各月1本投稿を達成したのですが今年に入ってから忙殺されておりましてブログも3本ほど下書きが溜まっては長い記事は今は無理と諦める毎日でした。そんな中丁度いい写真を貼り付けるだけの記事が書けそうな景色に出会ったので更新しました。元気ですがと言われると全くもって元気じゃないのですが、どうにか毎日もがいています。春から私の友達も結構社会人の仲間入りをしました。永遠に大学生やってる私を置いてみんなどんどん大人になっていきます。でも私はもう少しだけ許される限りはモラトリアム人間でいようかなとか思ってます。また近いうちに更新できればと思っています。それでは。

裸の王様

クリスマスイブですね。メリークリスマスってクリスマスとクリスマスイブどっちに使う言葉でしたっけね。クリスマスに人と会うことってあんまりないからよくわかりませんね。

 

世間は浮かれた気分ですが今日も今日とて悩み記事。

 

世の中には年功序列という言葉がある。儒教から広まったとされるこの考え方は日本社会に深く根付いている。社会生活に於いてよっぽど仲が深くない限り歳上は絶対とされ、敬語を使い、敬い、基本的に否定をすることはない。

 

自分が少しずつ大学の中で上級生になるにつれ、年功序列を強く実感するようになってきた。自分に意見を述べる人は少なくなり何かを提案したときに却下される回数も減った。結局思ったことをストレートに言ってくれるのはだいたい同期だけだと思う。

これは色々言われないで好き勝手したい人にはいいかもしれないが、好き勝手しすぎればもはやみんなに形式上敬われているだけで内心誰にも信用されていない先輩になってしまう。

 

進行形で部活内の上級生として後輩を率いる立場としてそれなりに考えてみんなの利益になるように選択して行動しているつもりだった。でもふと思えば、自分目線では自分の要求や自我を消して社会全体の利益が増大する方向に行動しているつもりでも、第三者目線では「僕の自我」で行動しているように見えているわけだ。上級生の僕の自我で選択された行動に文句を言える人は実質まあいない。結果的についていきたくなくても仕方なくついていくしかなくなっていく。でもみんなの心はどんどん自分から離れていく。

 

もうかれこれ2年前、人間不信に陥って以来僕は未だに人間が信じられない。出会い頭に怖いと感じることは知らないコミュニティ内でしか起きなくなってきたが、どれだけ仲がよくてもいつ嫌われて自分の前から消えていくのかという漠然とした不安がいつもつきまとう。こういう不安を感じずに「きっと何も話さず急に友達をやめられることはないだろう」と思えるのは10年の付き合いがある中高の親友くらいだ。今大学で本当に仲良くしてくれている友達ですら明日は友達じゃなくなっているかもしれないっていうことを考えながら過ごしている。だから自分に向けられた負の感情とか言葉とか仕草とかに敏感ですぐにこうやって思い悩むし、どれだけ仲がよくてもうだうだしためんどくさい悩み事や自分の弱点をフリーで晒す気にはなれない。自分のダメなところを見て相手が幻滅してしまったら。自分が一生懸命作り上げている立派で尊敬される素敵な人間像が壊れてしまったら。

 

だから悩みや弱音が出てきても結局いつも本心で包み隠さず相談することがなかなかできない。こうやって小さなヒビが積み重なって最終的に修復が極めて難しい地割れになっていく。いつも自分はサンドバッグ、みんなのために使い古されて使えなくなれば捨てられる。きっとそんな存在なのだ。

 

世間はクリスマス、みんなの幸せが末永く続きますように。

卒業、去る者と残される者

こんばんは。ここ3ヶ月くらい暗めの記事しか書いてない気がして申し訳ないのですが今日もまたちょっとセンチメンタルな記事。

 

以前このブログで言及したことがあるかは覚えてないが僕は気が付けば大学ももう5年目。あんなにたくさんいた先輩はふと見渡せばあと1学年だけ。今までの記事で何となく書いてきたが僕の部活は音楽系。今日も部活のメンバーが出演する外部のライブがあってそれを聴きに行ってきた。

 

うちの部活は大層珍しく部活動の卒業、まあいわゆる引退が6年目の12月にあるというとてつもなく長生きな部活なのである。スポーツ系と違ってレギュラーとかそういう概念がないのでできる技か。ということはそろそろ一つ上の先輩方は卒業を迎えることになる。卒業まであと1週間となる今日も先輩の一人がそのライブに出演していた。いつも通りライブを見に来た人たちで見て終わったら合流して記念写真を撮って打ち上げという名の飲み会。今日は散々飲んだ後にカラオケに突っ込んで2次会となった。うちは音楽系だけあって真面目に歌を歌うカラオケなのだがまあちょっと途中で歌を歌える気分じゃなくなってカラオケの階段で一人スマホとにらめっこをしてた。

 

今日ライブに出ていた6年生の先輩はすっごく変わった人で、根っこはまともだし音楽には部活で一番精通していて、でもそれを決してひけらかすことはしない人。で飲みモチベが高くて誰よりお酒を飲むし人にも飲ませる(もちろん強制はしないし事故なども特に今までない)。カラオケでも一人でブチ上げて盛り上がってる傍から見たらただの酔っ払いみたいな人。でも実はどんだけお酒を飲んでいてもすごく冷静に周りを見ていて、他の人がそのノリに巻き込まれて酔っ払っていると全く気が回らないところまで気が回る人だ。

 

さて、カラオケの階段でにらめっこをすることどのくらいだろうか、20分くらいかな?その先輩がふらっとやってきて「大丈夫?」と。何やら僕がしばらく部屋にいないことを気にして探しに来てくれたらしい。見えてないようで人一倍周りに鋭い。それで僕に元気がないことを悟ってぽつりぽつりとお話をしてくれた。さっきまで大声で騒いでた人と同一人物には思えないが。僕は前にたぶんちらっと書いたが尊敬する人からの承認がほしいタイプなのだ。先輩はそろそろ俺もいなくなるけど、と前置きをして僕が今部活内でどういう立ち位置にいるのか、そしてそれが重要な立場であること、そしてそうなろうと努力をして僕がその立場に立っていることを客観的に見て一通り述べ、そして頑張ってる、これからも頑張ってほしいと褒めてくれた。

 

その先輩はさっきも言ったように音楽に関してなら部活でこの人の上に立てる人はたぶんいないような人で僕にとっては憧れの先輩、かついつも先輩に可愛がられるのが得意じゃない僕もすごく可愛がってくれる兄のような存在だった。今まではそういうときも「そっか~」くらいのノリなのに、今日はいやに親身に、かつ丁寧に話をして、聴いてくれた。自分の努力が少し報われた気分になって、ずっと霧が立ち込めている僕の心に少しだけ日が射した気がした。

 

でも、そうやって話を大真面目にしてくれる先輩の姿を見て、僕を褒めて認めてくれる先輩を見て、今後の部活について珍しく真面目に本音で語る先輩を見て、本当に卒業が迫っているという実感が湧いてしまった。僕は今の一つ上の先輩たちが本当に大好きで実の兄姉のように慕っている。たくさんお世話になってきたし、彼ら先輩たちは僕のことを弟のように扱ってくれる。あと1週間したら先輩たちは部活の全体グループからもいなくなる。毎週やっている部活の全体会に毎週顔を出してくだらないことを言ってみんなを笑顔にしてくれることもなくなる。飲み会のときにバカみたいに飲んではみんなを楽しませてくれることもなくなる。今の先輩たちは部活にとって必要不可欠な太陽のような存在だと思う。ひときわいつも目立つ存在な先輩も、そうでない先輩もいるけれどみんなそれぞれの場所でそれぞれの人にとって必要な存在になっている。音楽という意味でも、部活動という社会生活の中でも、良き先輩良き友人としても。そんな人たちもあと1週間でいなくなってしまう。僕は夏終わりからこの終わりのときを意識し始め悔いがないように、出来ることは全てやって精一杯の恩返しと思い出作りをして卒業していってほしいと思ってきた。達成できたことも、達成できなかったこともあるけれど、こうして先輩に抱きしめられて褒めてもらえるような上級生になれたことは、少なくとも誇りに思わなければそれこそ僕を育て、認めてくれた先輩たちに失礼だと思う。

 

1週間、先輩たちが本当に大学を卒業する卒業式まではあと3か月。たかが3か月、されど3か月。僕は取れる限りの最大限の手段を用いて先輩たちに今までの感謝と、大好きなこの気持ちを伝えられるようにしたい。

 

3か月後、僕は残される者になる。幸いなことに僕には慕ってくれるたっくさんの後輩がいる。自分のことは嫌いだし自信なんていつもあるわけもないが、でも後輩たちから言ってもらえる「先輩がいると安心感がすごい」という言葉は疑う理由もない。そういう先輩になれたからこそ、僕はこれからも努力をやめない。誰よりも尊敬される立派な人間になりたい。人生上手くいくときも上手くいかないときもある。でもせめて上手くいっていると感じられるときくらい、全てを上手にこなしてやれる限りを尽くして悔いのない人生を送りたい。今は人生に絶望をしているところだけれど、でも僕を見守って応援してくれる全ての人のために、どうにか立ち直って生きててよかったと思いたいと強く願う。

 

先輩方が心残りなく気持ちよく笑顔に囲まれて卒業できますように。

秋、飽き、空き。

しばらくぶりです。気が付けば淡い水色の空はベタ塗りの青色に取って代わられ気温は20℃以上低くなりました。お元気にお過ごしでしょうか。

 

季節は秋、というかもう冬。毎年毎年段々四季とは言ったものの中間に挟まる中庸の季節、春と秋はアツアツの夏とキンキンの冬にサンドイッチされ肩身が狭そうだ。もはや春服とか秋服とか言うけど特にいらないんじゃないかと思うくらい。でも薄着すぎずかといって固定のコートを着まわすだけの生活にならない春や秋は一番ファッション的には楽しい季節。色彩もせっかくなら春や秋にちなんだ色の服を着たいよね。

 

さて、秋は何の季節か。秋色と言えば暖色だろう。夏に健康的な緑に生い茂った葉っぱたちが紅葉しその生涯に幕を閉じる。果たして葉は人生の終わりに葉の色を変えてどんなことを想うんだろうか。

 

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<日比谷公園 Nikon Z7+Z28mmF/2.8>

 

これだけ立派な葉をたくわえていても時期になったらあっという間に全てなくなってしまう。でも落葉樹って逆に見れば去年の樹と今年の樹は別物っていうこと。人生を毎年リセットできるってそれはそれで素敵なことかもしれない。もしかしたら。

 

秋になり冬の訪れを感じる頃、僕は人生に飽き飽きしてきた。人間はなぜ生きるんだろうか。何を目標にどうして生きるんだろう。

 

僕は人生の目標として小さい頃からずっと人の役に立つ人間、人のために生きる人間を掲げてきた。これは思い返せばいつからなのかは覚えてない。何かきっかけがあったわけではなく育った環境とか諸々で気付いたらこうなっていた。だから元々人を助けるために一生懸命になるというそういう動機付けで行動が成立していたのだが、ところがところが数年前に自我と自己肯定感という大切なものを失ってからというもの、その行動原理はちょっとひん曲がったものになってしまった。

単に人の役に立つならよかったが、今度は自分がどうなってもいいから人を助けるになってしまったのだ。自分の身や心や時間や何でも他人のためにつぎ込める人間はそれはそれでいいと思うが、でも自己肯定感がないだけで日々削った分だけ自分の身はすり減って削り残りの鰹節みたいになっていく。

すり減った身を取り戻すためにはどうすればいいか。自己肯定感が低い僕にとって自分の価値を示すことが出来る唯一のものは他人からの評価に他ならない。自己満足で人助けをしていてもやはり人に頑張りや行動そのものを褒められたい。それが素晴らしい人間になりたいという僕の根底にある目標に対する自己実現だから。

でも最近思うのだ。世の中には2種類の人間がいる。得をする人間と損をする人間。結局だれかが+1をしていたらその裏で誰かが-1をして帳尻が合うようになっているんだろう。僕は損をする方の人間なんだと思う。大学に入ってから得をすることの方がなかった。だいたいいつも損をする。別にそれが100嫌かと言われると、まず性分として仕方ないと思うし今更得をする人種になるのは損をする以上に疲れることだろう。それにごく稀に同種である損をするタイプの人間が自分の存在に気付いて同情してくれる。それはそれで有難い話ではあるのだが。だがしかし最近(もちろん僕がしている苦労なんてほんのちっぽけでしょうもないことなのだが。)自分が背負っている苦労や面倒事に対して対価が釣り合わないなあと感じる。まあ元々-1をする人は人生においてほとんどずっと-1を食らい続けていく運命にあるから対価が釣り合うことがあるわけないのだが。だからごく稀にやってくる+1のボーナスカードで腹を満たしていたところだった。でも直近の半年くらいはあまりにも激動の毎日で、誇張なしで毎日刻一刻と自分と周りに変化があった。その大半はうれしいことだったのは否定しようがない。でも食らうマイナスが1どころが段々100とか10000を食らうことが増えてきたのにプラスのカードはなかなかやってこない。頑張って毎日を必死に生きているのになんも返ってこない。どれだけ徳を積んでいるつもりでもまだ不十分らしい。本当にたまに我が儘を言おうと思うと我が儘を言う土俵にすら立てない。本当になんだかなあ。こんな風に生きるのに飽き飽きしてしまった。

 

 

こんな風に何とも疲労感の抜けない秋を過ごし上手く行かない毎日に悶々としているうちにどんどんやることは溜まるし心はガランと空き空きしてくる。どうして人間は生きなければならないんだろう。生きることさえ諦めたら全て楽になるのに。生きなければならないという固定観念が人間を常識という枠に縛り付ける。明日を生きなければならないなら明日は明日のやることがあるし、それに向けて今日から頑張らなければならない。でもなんで頑張る必要があるんだろう。頑張ってもいいことがないなら頑張る理由はどこに落ちているのか。マンションのゴミ捨て場か、大学の講義室の床か、バイト先の棚の裏か、はたまた東京湾の海の底か。

努力をして一番虚しい瞬間は努力が実らなかった瞬間ではなくて努力の結果も過程もそもそも誰にも見てもらえてなかった時だと思う。それにやはり人間はどうしても他人と自分を比較してしまう生き物である。他人と比較されてどうしようもない負け方をしたとき、本当にやるせないというか、どうしようもなかったんだなと諦めることしかできない無力感に襲われる。

 

しんどい時はどうすればいいか。そうだ、人に頼ろう。

でも頼りたい人が自分と同じ内容で悩んでいる場合はどうしたらいいと思うだろうか。頼れる人なんてお互いに信頼関係があるからこそのそれなのであって、つまり向こうが悩み事を抱えているとき向こうの相談相手は自分になる。だから向こうは僕が同じことで悩んでいるなんて露知らず、ひたすら悩みを僕にそれとなく見せびらかす。僕は自己犠牲的であるから自分の心を削ってどうにかしてあげたくなってしまうが、同様の悩みを抱えている人の悩み相談に乗ってあげるのは想像以上に心を蝕むことになる。結果的に解れて草臥れた心をどうにか誤魔化しながら更に心を雨ざらしにしつつ自分のことは自分で抱えきるしかできないのである。

 

さて夜も更けてきて相当眠気が限界にやってきているのだが、明日は6時台からアルバイトだし明日(つまるところ今日)までにやると言ったことがまだ全然進んでいない。さっき外から帰ってくる時にコーヒーを2本お供に買ってきたからどうにかそれで乗り切るしかないだろうなあ。今ならとある親友の言っていたほっといて一人で遠いところにでも行きたいっていう心情が分かる気がする。人間に会うのは楽しいが付帯する社会生活に追われたい気分では今全くない。でもやることはやらないと信用に関わるし。はあ、一度でいいからぐっすり寝かせてほしい。そして本当に思ったこと感じたこと感情思考を安心して全部吐き出せる環境がほしい。社会において生活する中で僕は他人に敏感だから他の人が見ている世界より情報量が5倍くらいある。ほんのちょっとした違和感でその人の感情や調子、悩み事なんかを読み取ることができる。でもこれはつまり他の人より多くのことに気付けてしまうということで、絡まった糸のように交わり合う問題を自分なりに解釈していくと問題は実は全て一つの糸が複雑に絡まっただけというこが分かることもある。つまり他の人だったら気付けなかったであろう複数人が複雑に関係しているような問題にも気付けてしまうが故、どんどん自分の悩みに関して素直に吐き出せる環境が狭くなっていくのだ。どんな悩み事も所詮物事を自分の目線から眺めたときの話に過ぎない。世の中には僕の悩み事で利益を被る人もいるかもしれない。僕の悩み事を解決してしまったら余計に傷つく人がいるかもしれない。他の人よりほんのちょっとそういうことが見えてしまうから、ちょっとだけ生きづらいのだ。

 

あーあ、明日もまたこの生きにくい世の中を生きなければならない。やること考えなきゃいけないことを全部放棄できたらどんなに楽なことか。僕も秋に散る紅葉のように人生に飽き飽きしたときに一旦リセットをできたら心に穴が空き苦しむことも減るのかなあ。秋、飽き、空きの季節。

がんばり

5月、誰かのためにしか頑張れない僕は頑張る目的を見つけた。そこからの毎日は努力を欠かさない毎日だった。勉強、見た目、私生活、家事、人間性、部活・・・、頑張れるものは全て頑張った。自分磨きと言われるやつ。まあでも当然ながら僕はすぐに120%の力で頑張る癖があるのでガス欠になって萎んだ風船のようになった。

 

気付けば10月。あれから4か月半。僕は頑張る目的をなくした。誰かのために頑張るという誰かを失ったこと、そして努力に裏切られたこと。僕には才能がない。何の才能もない。生まれてから今まで才能で何かを乗り切れたことはない。運動は音痴だし勉強はそこそこ、習い事もだいたい大成せず写真もセンスはなく音楽もひたすらに感覚と呼ばれるところが何も分からない。

 

絶対音感相対音感という言葉をご存じだろうか。絶対音感は世の中に溢れる様々な音が音階で聞こえる人のこと。これはある程度先天的で幼いころからいかに音楽に触れてきたかがモノを言う。相対音感はこれとはまた別で、相対音感の人は相対的な音感しかもっていない。絶対音感の人がどんな時も(例えばどんな曲が流れていたとしても)ドと言われたらドの音が分かるのと違い、相対音感の人はあくまでも相対的なドの音しか分からない。だから相対音感の人が絶対音感になるのは無理なのだ。

でも実は相対音感も鍛えまくって耳が良くなれば、疑似的に絶対音感になることはできる。どういうことかと言えばさっき言ったように絶対音感の人は絶対的な音階を持っている。だから要は相対音感の人が本気でドレミファソラシドの音階を暗記してしまえばいいのだ。そしたら絶対音感ではないかもしれないが疑似的にほぼ絶対音感が出来上がる。ここに必要なことはただひたすらに努力である。

 

なにが言いたいか。僕には才能がない。でも頑張って努力をしたら疑似的に才能がある人の物まねができるかもしれない。僕には努力しかできないのだ。

 

大学に入りはや5年目、部活は気が付けばあと2ヶ月で最上級学年になる。思い返せば1年生だったというのにもう5年目。先輩としての振る舞いを考える時期になった。1年生の頃は努力をすることや結果が出ることが褒められる頃だった。でも5年目になって先輩に求められることはただ結果が出せることだけだ。どんなに頑張っていても結局結果が伴わないならダメなのだ。結果を出すために一番早いのは才能があること。単純に努力しなくても上手いならそれで問題ない。そもそも5年目にもなれば何でもできて当たり前、できないことがあればむしろただただ指摘される。出来ないところは誰も見てないところでひたすら努力して出来るようになるほかない。

 

今大学で音楽をやっているが僕は大学に入るまでほとんど音楽経験がないので周りのみんなより圧倒的に知識が足りていない。それに僕のやっているアカペラというのは軽音楽のバンドを全て人間の口でまかなうというもので、パートに分かれて歌う。だからベースだったりドラムだったりも僕らで演奏をする。僕は先輩としてリードも、コーラスも、ベースも、パーカスも、全ての面倒を見てあげられないといけないし、音楽の理論的な話も分からないといけない。なんなら自分でどのパートが飛んできたとしても完璧にこなせなければいけない。

 

先日のオーディションの結果は散々だった。一番通りたかったバンドから落とされた。僕が散々重ねてきた努力はシャボン玉のように消えていったように思えた。

 

今日(もう立派に昨日だが)はイベントがあってそこでメンバーと演奏をした後、夜は次のオーディションに向けた動画と音源を録るために別のバンドで練習をした。結局11時近くまでかかったが音源と動画を無事に、しかも納得できるクオリティで収録することができた。これに満足がいったので仲のいい部長にLINEで「ねえねえ、みてみて」と送ってみた。そしたらひとつ前の記事に書いた今度解散してしまう僕の愛してやまないバンドでやってきた練習が実ってますね、という旨の返事が来た。

 

本当にうれしかった。まず結成したばかりの後輩たちとやっているバンドでここまでのクオリティのものが短い期間で完成したこと。ちゃんと後輩を育ててあげられているという確かな実感と、自分がやりたかったことをひとつ達成できたという手ごたえ。そして前回のオーディションで落ちてしまったが解散になるバンドでやってきたこと、その努力は無駄になっていないということ。そして努力を単純な結果だけでなく他のところで活きていることを認めてくれたこと。たったそれだけの話かもしれないが、僕にとってはすごくうれしかった。ずっと誰かに認めてほしくて頑張ってきた。でも誰かに認めてもらうのは本当に難しい。誰も自分なんか視界に入っていないんじゃないかと思う日もある。でもそれでも僕には努力することしかできないから、今日もがむしゃらに努力し続ける。

空振り三振からの

直近いいニュースがない。この前は3日連続で特大ジャブを食らってメンタルボコボコだったしろくなことがない。

 

オーディションはまあ順位をつけるという性質上当たり前だが1位から最下位までがつけられる。これは結構残酷で過程を無視し結果だけを重視している成果主義がオーディションだからどれだけ頑張っても頑張らないで結果が出せる人には適わない。

 

なぜ人生は与えられるもののところにはとことん与えられそうでない者には求めても与えられないんだろうか。歌が歌いたいたったそれだけのことなのに叶わない人がいる。この人と一緒に歌が歌いたいたったそれだけのことなのにある日突然取り上げられる人がいる。人生は諸行無常、当たり前のことは本当に当たり前ではない。

 

大学に入ってからというもの、どんどん歳を重ねてきた。18歳だったのが19歳になり、成人を迎え、体も心も成長しないのに年齢の数だけどんどん大きくなっていく。歳を取ると背負うモノが大きくなる一方で多くのものを捨てながら歩くことになる。僕の場合は責任を背負って自我と自己肯定と欲望を捨てた。自分が何かをしたいと思ってもそれが社会の誰かの迷惑になる可能性があるならやらない。こうしてどんどん自ら夢を切り捨てていった。でも夢が夢じゃなくて現実になることもたまにやってくる。

大学に入った年、初めてプロアカペラのカバーを生演奏で聴いた。生で聴くアカペラは迫力がすごく、僕は自分の卒業までにその同じ曲を演奏すること、あわよくば最高のクオリティで演奏すること、そしてもし叶うのならば卒業時のライブでその曲を最高クオリティで演奏することを大学生活の夢であり目標としたのだった。

でもプロアカペラの曲はとてつもなく難しくまた楽譜を採譜するのが手間でメンバー集めも大変、ずっと叶わぬ願いとして心の奥底にしまわれていた。

 

転機は今年の春、新歓合宿で組んだバンドがなんと憧れのその曲をやるという。なんという運命か、5年目にしてようやく機会が巡ってきた。一緒に組んだメンバーは全員が偶然にも凄腕、特にトップ(合唱で言うところのソプラノ)を務める子はとんでもない才能の持ち主だった。その歌声や歌う姿にすぐに目を奪われた。新歓合宿のうちのバンドは明らかに他のバンドより気合が入った演奏をしてすぐさま話題になった。そして合宿の終わりに後輩たちからの提案でバンドが今回限りじゃなく長く続くこととなった。

 

コンスタントに練習を重ねていく中で僕の心には散々諦めようとしたが諦めきれない夢が再び浮上してきた。このバンドには今年度で卒業を迎える先輩が2人おり、彼らが卒業引退した後、後輩を誘って人員を補填しもう一度プロアカペラカバーのバンドとして始めたい、という野望だった。しかもバンドメンバーはこのバンドのことが好きであろうことが日常から見え隠れしていたのでたぶん誘ったら断られないであろうことが想像ついていた。

 

ところがつい先日、練習で集まった僕らに告げられたのは解散宣言だった。しかも1か月後とかじゃなくてたったの2週間後の話だった。メンバーのソプラノの子が諸事情あって抜けざるを得ないとのこと、部活までやめてしまうらしい。

 

せっかく掴みかけた僕の長年の夢は塵となって飛ばされていった。

 

僕はもう今後プロアカペラのカバーはあんまりしたくない。そのソプラノの子は本当に神様に授かったような才能でとんでもないくらい上手に歌いこなしてみせる。たぶん卒業までに、いや下手をしたら一生彼女より適任な人物に出会うことはない。それならばもうやる意味はない。

 

僕も、彼女も、他のバンドメンバーたちも、みんなこのバンドが好きで、そして解散の話をしていたとき、聴いていたとき本当に辛そうな顔をしていた。本当はみんなもっと歌いたいはずなのに、そんな簡単なことが叶わない。なぜいつも本当に一番欲しいものだけ手に入らないのか。人間の人生なんてそんなものかもしれないが、でもなんで今。せめてあと1年はやりたかった。1年も練習したらきっとどこでも出せるくらいのクオリティになっただろう。もっと歌いたかった。もっと彼女と一緒に歌を歌いたかった。たったそれだけのことだというのに。

 

夢は儚いから夢なのかもしれない。でも諦めることに慣れてしまった僕がめずらしく諦めたくないと思った夢。そう簡単に気持ちの整理がつかない。その知らせを受け取ってから毎日そのバンドのことを考えている。なぜ一緒に歌を歌うことすら叶わないんだろうか。