おふとんの日常

blue-pink-sky’s diary

秋、飽き、空き。

しばらくぶりです。気が付けば淡い水色の空はベタ塗りの青色に取って代わられ気温は20℃以上低くなりました。お元気にお過ごしでしょうか。

 

季節は秋、というかもう冬。毎年毎年段々四季とは言ったものの中間に挟まる中庸の季節、春と秋はアツアツの夏とキンキンの冬にサンドイッチされ肩身が狭そうだ。もはや春服とか秋服とか言うけど特にいらないんじゃないかと思うくらい。でも薄着すぎずかといって固定のコートを着まわすだけの生活にならない春や秋は一番ファッション的には楽しい季節。色彩もせっかくなら春や秋にちなんだ色の服を着たいよね。

 

さて、秋は何の季節か。秋色と言えば暖色だろう。夏に健康的な緑に生い茂った葉っぱたちが紅葉しその生涯に幕を閉じる。果たして葉は人生の終わりに葉の色を変えてどんなことを想うんだろうか。

 

DSC_7826

<日比谷公園 Nikon Z7+Z28mmF/2.8>

 

これだけ立派な葉をたくわえていても時期になったらあっという間に全てなくなってしまう。でも落葉樹って逆に見れば去年の樹と今年の樹は別物っていうこと。人生を毎年リセットできるってそれはそれで素敵なことかもしれない。もしかしたら。

 

秋になり冬の訪れを感じる頃、僕は人生に飽き飽きしてきた。人間はなぜ生きるんだろうか。何を目標にどうして生きるんだろう。

 

僕は人生の目標として小さい頃からずっと人の役に立つ人間、人のために生きる人間を掲げてきた。これは思い返せばいつからなのかは覚えてない。何かきっかけがあったわけではなく育った環境とか諸々で気付いたらこうなっていた。だから元々人を助けるために一生懸命になるというそういう動機付けで行動が成立していたのだが、ところがところが数年前に自我と自己肯定感という大切なものを失ってからというもの、その行動原理はちょっとひん曲がったものになってしまった。

単に人の役に立つならよかったが、今度は自分がどうなってもいいから人を助けるになってしまったのだ。自分の身や心や時間や何でも他人のためにつぎ込める人間はそれはそれでいいと思うが、でも自己肯定感がないだけで日々削った分だけ自分の身はすり減って削り残りの鰹節みたいになっていく。

すり減った身を取り戻すためにはどうすればいいか。自己肯定感が低い僕にとって自分の価値を示すことが出来る唯一のものは他人からの評価に他ならない。自己満足で人助けをしていてもやはり人に頑張りや行動そのものを褒められたい。それが素晴らしい人間になりたいという僕の根底にある目標に対する自己実現だから。

でも最近思うのだ。世の中には2種類の人間がいる。得をする人間と損をする人間。結局だれかが+1をしていたらその裏で誰かが-1をして帳尻が合うようになっているんだろう。僕は損をする方の人間なんだと思う。大学に入ってから得をすることの方がなかった。だいたいいつも損をする。別にそれが100嫌かと言われると、まず性分として仕方ないと思うし今更得をする人種になるのは損をする以上に疲れることだろう。それにごく稀に同種である損をするタイプの人間が自分の存在に気付いて同情してくれる。それはそれで有難い話ではあるのだが。だがしかし最近(もちろん僕がしている苦労なんてほんのちっぽけでしょうもないことなのだが。)自分が背負っている苦労や面倒事に対して対価が釣り合わないなあと感じる。まあ元々-1をする人は人生においてほとんどずっと-1を食らい続けていく運命にあるから対価が釣り合うことがあるわけないのだが。だからごく稀にやってくる+1のボーナスカードで腹を満たしていたところだった。でも直近の半年くらいはあまりにも激動の毎日で、誇張なしで毎日刻一刻と自分と周りに変化があった。その大半はうれしいことだったのは否定しようがない。でも食らうマイナスが1どころが段々100とか10000を食らうことが増えてきたのにプラスのカードはなかなかやってこない。頑張って毎日を必死に生きているのになんも返ってこない。どれだけ徳を積んでいるつもりでもまだ不十分らしい。本当にたまに我が儘を言おうと思うと我が儘を言う土俵にすら立てない。本当になんだかなあ。こんな風に生きるのに飽き飽きしてしまった。

 

 

こんな風に何とも疲労感の抜けない秋を過ごし上手く行かない毎日に悶々としているうちにどんどんやることは溜まるし心はガランと空き空きしてくる。どうして人間は生きなければならないんだろう。生きることさえ諦めたら全て楽になるのに。生きなければならないという固定観念が人間を常識という枠に縛り付ける。明日を生きなければならないなら明日は明日のやることがあるし、それに向けて今日から頑張らなければならない。でもなんで頑張る必要があるんだろう。頑張ってもいいことがないなら頑張る理由はどこに落ちているのか。マンションのゴミ捨て場か、大学の講義室の床か、バイト先の棚の裏か、はたまた東京湾の海の底か。

努力をして一番虚しい瞬間は努力が実らなかった瞬間ではなくて努力の結果も過程もそもそも誰にも見てもらえてなかった時だと思う。それにやはり人間はどうしても他人と自分を比較してしまう生き物である。他人と比較されてどうしようもない負け方をしたとき、本当にやるせないというか、どうしようもなかったんだなと諦めることしかできない無力感に襲われる。

 

しんどい時はどうすればいいか。そうだ、人に頼ろう。

でも頼りたい人が自分と同じ内容で悩んでいる場合はどうしたらいいと思うだろうか。頼れる人なんてお互いに信頼関係があるからこそのそれなのであって、つまり向こうが悩み事を抱えているとき向こうの相談相手は自分になる。だから向こうは僕が同じことで悩んでいるなんて露知らず、ひたすら悩みを僕にそれとなく見せびらかす。僕は自己犠牲的であるから自分の心を削ってどうにかしてあげたくなってしまうが、同様の悩みを抱えている人の悩み相談に乗ってあげるのは想像以上に心を蝕むことになる。結果的に解れて草臥れた心をどうにか誤魔化しながら更に心を雨ざらしにしつつ自分のことは自分で抱えきるしかできないのである。

 

さて夜も更けてきて相当眠気が限界にやってきているのだが、明日は6時台からアルバイトだし明日(つまるところ今日)までにやると言ったことがまだ全然進んでいない。さっき外から帰ってくる時にコーヒーを2本お供に買ってきたからどうにかそれで乗り切るしかないだろうなあ。今ならとある親友の言っていたほっといて一人で遠いところにでも行きたいっていう心情が分かる気がする。人間に会うのは楽しいが付帯する社会生活に追われたい気分では今全くない。でもやることはやらないと信用に関わるし。はあ、一度でいいからぐっすり寝かせてほしい。そして本当に思ったこと感じたこと感情思考を安心して全部吐き出せる環境がほしい。社会において生活する中で僕は他人に敏感だから他の人が見ている世界より情報量が5倍くらいある。ほんのちょっとした違和感でその人の感情や調子、悩み事なんかを読み取ることができる。でもこれはつまり他の人より多くのことに気付けてしまうということで、絡まった糸のように交わり合う問題を自分なりに解釈していくと問題は実は全て一つの糸が複雑に絡まっただけというこが分かることもある。つまり他の人だったら気付けなかったであろう複数人が複雑に関係しているような問題にも気付けてしまうが故、どんどん自分の悩みに関して素直に吐き出せる環境が狭くなっていくのだ。どんな悩み事も所詮物事を自分の目線から眺めたときの話に過ぎない。世の中には僕の悩み事で利益を被る人もいるかもしれない。僕の悩み事を解決してしまったら余計に傷つく人がいるかもしれない。他の人よりほんのちょっとそういうことが見えてしまうから、ちょっとだけ生きづらいのだ。

 

あーあ、明日もまたこの生きにくい世の中を生きなければならない。やること考えなきゃいけないことを全部放棄できたらどんなに楽なことか。僕も秋に散る紅葉のように人生に飽き飽きしたときに一旦リセットをできたら心に穴が空き苦しむことも減るのかなあ。秋、飽き、空きの季節。