おふとんの日常

blue-pink-sky’s diary

カメラとぼく

カメラ(英: camera、独: Kamera)は、写真(や映像)を撮影するための光学的な機械や装置。 写真機(しゃしんき、寫眞機)ともいう。

(Wikipediaより引用 Wikipedia「カメラ」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9 2023年7月18日閲覧

)

 

カメラとは光学的な特性を利用して写真や映像を残すための機械。シャッターを切ることで撮像素子やフィルムに光が当たって写真というデータが生成される。レンズを通して見える世界は当たり前だが僕たちの見るこの世界そのものである。

 

 

 

ちょっと個人的な話。

僕が初めてカメラを持ったのは小学1か2年生の頃。もう亡くなった祖父からNikonのコンパクトデジタルカメラを貰ったのがはじまりだった。それ以来旅行やらお出かけのときは首からカメラケースが下がっているのが定番になった。最初はだいたい食べ物の記録に使っていたような。

それ以来NikonNikonCanonコンデジを使いつづけていたものの、より高画質が欲しくなり一眼レフの購入を決意。中学2年生のときにそれまでの貯金とお小遣いを前借する形でNikon D5300を購入。そこから無限のカメラ沼に転落し最初はAPS-C入門機にキットレンズだったのがD750にΣやTamronのレンズ、70-200と順調に増えていき最終的に大学2年の頃バイト代を30万円はたいてNikon Z 7とZ50mmF/1.8Sを購入。これが今の僕のメイン機材になっている。

 

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これまでカメラと周辺機器(XQDや現像環境としてのPC、防湿庫など)に掛けた額は100万円越え。もちろん上には上がいるので(HasselbladやLeica、GFXやPhaseoneなど)そっちはキリがないが一般アマチュアにしては相当のめり込んでる方だと思う。人生において切ってきたシャッターの回数は25万以上。D5300のときに10万ちょっと、D750で12万弱、Z7で3万くらい。これだけカメラ・写真という趣味をやっているとカメラは僕にとってただの写真を残すための機械ではなくなるのである。

 

一流のスポーツ選手が自分の道具に信頼を置くように、僕にとってのカメラは道具であり自分の一部分である。もちろんレンズも一緒に。

大学生になってから念願だった単焦点レンズを買いそれまでは「何でも対応できる」をモットーに使ってきた大三元小三元の標準レンズ(Σ24-105/4AやTamron24-70/2.8VC)をやめ35mmや85mm、50mm、時には75mm(Sigma dp3の換算)の単焦点レンズに親しんできた。単焦点を使うようになってからというもの、その画角が自分の「目」となっていく感覚が強くなっていった。モノを見るときはどの焦点距離の画角かを考えるようになっていった。

 

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僕にとってカメラやレンズは体の一部分なのだ。僕が写真を残すのはもちろんシャッターを切るのが楽しいからだし、撮った写真を人に見せれば喜ばれたり褒められたりするからでもある。でも一番の理由は僕にとって写真は外付けハードディスクなのだ。写真に残したことは何年経っても鮮明に思い出せる、だからこそ忘れたくない大事な瞬間は必ず写真に収めたいのだ。そのために何年もかけて最高の機材を用意したし、腕や知識も身につけてどんな瞬間でも写せるようにした。言わば消滅しない容量無限の外付けハードディスクとどんな場面も一瞬でドラマティックにできるポテンシャルを持つ最高の目を用意したのである。

 

僕は今カメラボディを3台、レンズを8本所有している。どのボディもどのレンズも僕にとっては大切な体の一部分。実は直近、お金がなさすぎてレンズを2本売却した。どちらも性能的に不満が無いわけではなかったが、大切な宝物であったことには変わりない。特に片方のレンズはもう何年も飽きっぽい僕の相棒をしてくれていたレンズ、言うなれば片目を失ったような気持ちである。

 

冷静に考えてレンズをそんなに持っててどうせ一度に全部使うことはないでしょと言われたらそれはそう。特にボディなんて現在本務機を務めているZ7以外はもう何年も触っていない。それでも僕が未だに使用頻度の低い道具たちを手放せないでいるのは長く一緒に大切な時間を過ごしてきたから。

 

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レンズやボディはそれぞれの個性がある。言わばそれぞれの「目」によって視力の良し悪しがあったりカラコンをしている子がいたりとそんな感じ。同じ焦点距離のレンズだからと言って同じように写るわけでは全くない。例えば僕はZマウントのZ50mmF/1.8SとFマウントのオールド、Ai-S50mmF/1.2を所有しているがこの2本では写される世界が全く異なる。すっきりとした言うなれば写実的なZ50mmに対して独特な世界観を作り出すAi-S50/1.2、のような感じ。カメラボディの画像処理ではなくレンズ特有の色の出方みたいなものもあるのである(細かい話これは時代によるコーティングの変化などが原因だが)。

まあだから、その日の被写体や気分によってレンズをとっかえひっかえするのは我々が髪型を気分で変えたり服装に合うアクセサリーを身に着けたりするようなものであるということだ。

 

人間が自分たちの健康に気を遣うように、僕もまた体の一部分であるカメラやレンズたちを大切にしてあげなければならない。そうでなければカビが生えたり内部機構が壊れたりしてしまうのである。正直なことを言うと高校生や大学生の初めの頃はあまりレンズを大事にしていなかったと思う。カビを生やしたこともあった。だからこそ今は立派なお家である防湿庫を買ってその中で快適に暮らしてもらっているのだ。

 

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僕にとってカメラはアイデンティティであり趣味であり外界とを繋ぐ手段であり外部記録である。自分が何を見ているのか、その視点が表現されるものなのだ。だから僕はこれからも自分の「目」を通して見える景色を記録し続けるし、そのために必要な大切な相棒であるカメラやレンズは誰よりも大切にするのだ。