おふとんの日常

blue-pink-sky’s diary

夢破れる

僕は自分の感情に素直に生きているつもり。だからしんどいことがあれば我慢できないし好きとか嫌いとかの感情も人間関係に直結してしまう。いいことなのか悪いことなのかはさておいて、昨日は雨の降る度にお皿に溜まっていた水が溢れるように感情が溢れた日だった。

 

感情が表出するのは案外あっさりしていて、自分の感情を吐露する瞬間は客観的に見るとすごく馬鹿馬鹿しい。でもどれだけ馬鹿馬鹿しくても自分の感情に向き合うことが相手に対しての一番の誠意だと思うから、僕は向き合うことにした。

 

向き合って何かが生まれるとは最初から思っていなかった。最初から特に何になるとも思っていなかったし、かれこれ4か月の間期待をせずに過ごしてきた。最近はあんまりうれしくない出来事がたくさん重なって感情が迷子になった。自分が何に対して悲しくて何に対して辛いのか、視界がぼやけてよく分からなかった。

こういう時に霧を晴らすのはだいたいが時間だ。今回の場合は時間と言っても大袈裟ではなくたった1晩のことだった。夜はよく寝れず眠い頭で課題を進めながら無心でパソコンに向きあっていると少しずつフクザツで概形が分からなかった感情が少しずつ悲しみという形をもって表出してきた。

 

僕は4か月、いや5か月の間、ずっと感情のジェットコースターに乗ってきた。ひょんなことで喜び、どうでもいいことで悲しみ。すごくしんどかったし本当にどうにかなってしまいそうだった。ヤケクソになったことも1度や2度じゃないし、散々相談に乗ってくれてた人たちには迷惑をかけた。でも振り返るといつでも頭の片隅には笑顔があって。そのためなら辛くても頑張る理由になった。

 

きっとこの先も僕はまた同じようなことを繰り返すのだろう。いつか本物の幸せを見つけるまで。今はただ、5か月間どのようだったかを振り返り傷がかさぶたにならないよう、治りかけたらその都度かさぶたを剥がして過ごしていきたい。僕の中には感謝の気持ちでいっぱい。本当に、本当に、ありがとうと伝えたい。

 

「振り返れば数えきれない思い出が溢れ出してくる

 誰にも見えないところで頑張ってる君のそばにいられること

 それだけでこんなにほら幸せなんだよ

 こみあげてくる想いはただありがとう」

 

youtu.be

旅に出たい

しばらく旅に出ていない気がする。夏休み中は家族旅行の河口湖と遠出という意味では日帰りの鹿島神宮と富山か。毎日やることに追われていると昨年度の本当に何にも追われず気ままに思うがままにふらついた旅がやりたくても簡単にやれることじゃないってことに気付かされる。いや、昨年度の時点で気付いてはいたが、より実感を持ってそれを体感すると言った方が適切か。

大学の学業と部活動と趣味と。やりたいことに注力するには些細なことが忙しすぎるしお金と時間の制約が大きすぎる。まずは学業を修めなければいけないのはもちろん分かっているのだが、本当にどうやってモチベーション管理したらいいのやら。

 

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海を見に行くでもいい。磯の香りがする太平洋も、断崖絶壁に絶え間なく波が押し寄せる日本海もいい。気分的にはやっぱり日本海が好きだが。

 

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山もいい。そろそろ少しずつ気温が下がってきて紅葉に向けて緑も終わりを迎える時期。この時期の暑すぎない山もなかなか綺麗で過ごしやすいんじゃなかろうか。あんまこの時期に訪れたことない気がするが。

 

日本地図塗りつぶしも昨年度から今年度頭にかけての怒涛の追い上げのおかげでいよいよ残すところ11までやってきた。でも分かってはいたが普通に大学生活を送りながらというのはなかなか進まなく、そもそも旅に出ることがあっても行ったことがあるような(=そこまで行きにくくない)都道府県が選ばれがち。新しい県を埋めるのは至難の業となりそうだ。それに加えて如何せんお金がない。早くバイトをたくさんしろというのはその通りなご指摘なのだが普通にやりたいこととやらなければならないことだけで結構精一杯なのだ。

 

部活の音楽もすごく楽しいし本当はもはやこれだけやって生きていきたいと思えるくらい打ち込んでいる。でも同時に最近ちょっと疲れてしまってきたとも感じる。誰かのために頑張るのは得意だけれども、物理的な限界と、諸々自分にとってうれしくない出来事が重なってどうしたらいいのか道が見えない感じ。言うなればがむしゃらに頑張るのにも限界があるという話だろうか。

コロナ禍の空白の3年間が大きすぎて、もはや見た目だけ成人した赤ちゃんのような存在になって部活に返ってきた。でも気付けば成人としての振る舞いを求められるわけだから、僕に出来ることは必至で成人になるための知識や経験をつけること。部活動歴で言えば2年生と何ら変わらないけど、僕が2年生と同じ知識量だったら部が終わってしまう。大学入って部活を始めるまで音楽経験が一切ない僕にとって音楽は未知の領域。理論的な話の触りから実践的な知識まで、幅広く色んな知識を頭に入れてそれを練習のときに少しでも実践する。そして出来ることなら僕の持つそういった知識で後輩を育てられたら。

でも単純に僕も人間なので努力があまりにも実を結ばないときは心が折れそうにもなる。先日あったライブに向けたオーディションは本当に散々だった。自分の力不足と努力不足、日頃の怠慢、色んなものを感じ取った。楽しいはずの部活動でも疲れを感じるようになるのはまずい。少しのんびり羽を伸ばせる期間があればいいんだけど生憎10月から12月は毎月ライブがやってくる大ライブ月間。今休みたいなんて言えば周囲に迷惑が掛かる。でも中途半端なモチベでやってもいい結果を生まないのも分かってる。さあ、どうするのが正解だろうか。

 

旅に出たい。でも今は1年前とはちょっとモチベーションが違う。1年前の僕には友達が少なかった。僕は暇でも周りは暇じゃなかった。だからこそ一人で楽しめる一人旅をやってみたらそれが意外と性に合っていた。でも人と出掛けるのも大好きだ。今僕には大好きな部活の仲間たちがいる。別に泊まりじゃなくてただのお出かけでいいから、大好きな彼らと少しオフを楽しみたい。オンでいることに少し疲れてしまったから。でも自己評価の低い僕にとっては人を何かに誘うっていうのはかなりハードルの高い行為になる。近いうちに勇気を出してみんなを遊びに誘えたらいいな。

しんどい

社会不適合に社会生活は厳しいものがある。

 

僕は昨年度は大学にほとんど通っておらず、今年度1年ぶりの大学に復帰したのだがいきなりの実習生活がしんどい。

コロナ禍、ずっとオンライン時代を経て落とした体力はどうにか昨年度動き回って取り戻した。でも社会生活を送るのに必要なのは体力だけじゃなくて気力や環境の整備、色んなことがあるだろう。

今年度が始まった時、学科にはほとんど友達が0からスタートした。最初の2ヶ月間、友達を少しずつ作りながら毎日登校する生活に体を慣らしていった。でも体が慣れたからと言って心が追い付くわけではなくたまに大学に行けない日もあった。それでも何とか2ヶ月を過ごした。

 

6月、研究室が始まった。研究室が始まると2ヶ月間通常の授業や実習はなくひたすら研究室に打ち込む期間となっているのだが、僕の研究室は毎日しっかり登校して研究を行うようなところだった。最初のうちはどうにか普通に通っていたのだが、少しずつ慣れない環境、慣れない人間関係に疲弊してきた。僕は何かを学ぶときにその根本の原理から気になるタイプだったが、それが煙たがられたようで先輩にはあまりいい顔をされず、日々迷惑をかけている感覚が蓄積し最後は配属先の先生にちょっとした注意をされた結果結局登校不可能になってしまった。

一般の人、健常な人にはこれがどういう感情なのか分からないだろうけども、僕みたいなタイプの人は周囲の人の感情に機敏すぎてちょっとでも周囲から負の感情を感じ取るとそれが自分の心にダメージを与えるのだ。実験の途中、昼休みはほとんど毎日お弁当を作って持って行っていたが珍しく外食した日、先輩のお昼休みがだいたい1時間半あることを知っていた僕はゆっくりとお昼ご飯を味わって1時間半後に研究室に戻った。すると先輩は「今日は遅かったね」と声をかけてきた。これが普通の人なら普通に受け流して終わるのだろうが僕にはその時の先輩の困惑と迷惑を混ぜたような顔が見え「なんでお昼休みは基本1時間って言ってるのに1時間半も帰ってこなかったの?」に聞こえてしまう。周囲の顔色ばかり窺って生きてきた弊害で気の置けない人以外とのコミュニケーションは本当に疲弊してしまう。

 

結局7月の中旬以降は1日も研究室に登校できないまま7月31日の配属期間最終日を迎えた。

 

このツケはどっかで支払うことになるだろうと思っていたが、流石にこのままでは研究実習の単位が貰えないのは分かっていたので学年主任の先生に相談をした。すると非常に真摯に相談に乗ってくださり、どうにか研究室の単位は貰えそうな流れになった。1月くらい研究室に登校は出来なかったが、その前の行けていた期間に真面目に勉強をしていたのが良い方向に働いてどうにか研究実習の成果発表も迎えられそうであった。

 

8月、夏休みは頭を空っぽにして全力で楽しんだ。毎日のように予定がありそこら中で色んな人と遊んだ。いつもの顔ぶれも、コロナ禍以前、いや高校卒業ぶりの再会を果たす人もいた。

 

8月末、後期の大学が始まった。8月1ヶ月間遊び続けて鈍った体はなかなか大学に慣れることを拒否したが、それでも最初は体に鞭打って登校を続けた。

9月に入り、目の前にやることが山積していた。研究実習のまとめ報告書を英語で書かなければならず、また部活動の方も楽譜を書くとか他にも実習の予習やその他諸々やることが山積みだった。なかなか先の見えない生活をしていた中日々大学へ行きたくない気持ちが膨らんでいた。まず大学での人間関係。夏休みの間に変化した友人間の友人関係についていくのが本当に面倒、大学でそんな風に気を回していてはすぐに疲れてしまう。それにそんなときに頼れる存在の欠如。長く友達でいた連中は一個上の学年にいってしまった。友達がいないと頑張って登校しようというモチベーションにならない。もちろん僕には幸いなことに心配をしてくれる友達はいるのだが、彼らはまだ知り合って4ヶ月程度の仲、何でも話せるし相談できるような気分ではない。また課題が山積していたのもよくなかった。物事の優先順位を付けるのが下手くそな僕はまたいつものように課題を先延ばしして目先の楽しいこと、楽なことを選ぶ。また人から誘われたり期待を含ませるような言い方をされたりすると僕は絶対に断れない。結局そうやって使える限られた時間を周囲のためにまず使い、最後に自分の時間を持ってこようとするもんだからどんどん夜更かしするようになる。当然だが疲労が溜まって朝起きるのが本当にしんどかった。でも自分を優先することが僕は絶対にない。コロナ禍でうつ病になったときに自我と自己肯定感を失ってしまった僕にとって自分はただのそこら辺のモブでしかなく、周囲の役に立つことにしか生きる意味を感じられない。だから周囲に困っていたり悩んでいたりしんどそうだったり構ってほしそうだったりする友人がいたら身を削ってでもどうにかしたくなってしまう。そして最後に恋愛がらみのパンチを食らいとうとう僕は再起不能になってしまった。

 

でもこうやって書いているのは所詮自分を正当化しようとしているだけの話なのだ。僕は分かっている。僕は一度うつ病適応障害のレッテルを手に入れてから何でも都合よく解釈し自己を防衛してきている。こんなのはただの甘えぐせでしかない。本当はみんな生きていく中でたくさんの困難に直面してそれを何食わぬ顔をして乗り越えている。だというのに僕は毎日の中で楽しいやりたいことだけやってやりたくないことばかり都合のいい言い訳をして避けている。本当に甘えているだけなのだ。

 

いよいよ実習の出席が足りなくなった。先生にメールで確認をするがたぶん足りていないと思う。春からどうにか作り上げてきた僕の張りぼての順風満帆な人生はつまようじでつつかれただけであっさりと萎みただの紙屑になってしまった。

 

本当に散々相談を聞いてもらっている友達や救おうとしてくれている先生、そして何より散々支援し支えてくれている親に申し訳ない。

 

どうしたらこんな甘えぐせはなくなるのだろうか。せっかく半月前まで楽しい気分で生活してきたというのにたったこれだけのことで僕の毎日は灰色になってしまった。毎日どこか歯車が噛み合わないような気分で過ごしている。一人のときに考え事をするとマイナスなことしか出てこないし、昨日は留年して殴られる夢を見た。人間という生き物は、と括るのはさすがに傲慢か、僕という人間はあまりに脆すぎる。元気に生活するためのコツは掴んだはずなのに課題、人間関係、生活リズム、登校と様々なストレスに直面しただけであっという間に崩れ落ちてしまった。ストレスを明確に感じるのはなかなか久しぶりな気がする。夜は寝たくないし寝れば逆にいつまでも寝てしまって起きられない、楽しいことが考えられない、無限に食欲が湧く。いっそのこと体なんて壊れてしまえば楽なのだが。でもこうやって周囲に心配をかけるようなことだけ言って結局僕は生きてしまうのだ。どうしようもない人間なのだ。

 

人に相談をしたら、とかも思う。でもこの時期友達はみんな忙しいのだ。そもそも高校の連中は就職したか大学院生、学会で活躍する話なども小耳に挟む。大学の友人は実習中で忙しいかやることに追われ忙しい。僕が気軽に大事なときに人を頼れる人間ならこんな風に最初からならないのだ。そのくせ根が真面目だからズルをしてやることを減らすなど心が許さない。やるなら100やらないと気が済まないのだ。じゃあ100の反対は?そう、0になってしまう。だからやれないときは全て放り投げてしまう。

 

僕にとって友達というのは大切な存在で、何よりも大切なのだ。だからこそ友達が忙しそうにしていたり困っていたりしんどそうにしていたらたとえ自分がやることが溜まっていてもしんどくても助けの手を差し伸べてしまう。どんなにやることが溜まっていてもそのしんどさを同じくしんどそうな人の前には出したくない。代われることがあれば代わってあげたいし、実際に手伝うこともたくさんある。心配な友達がいれば自分の時間をたくさん割いて元気かどうか確認したくなる。

7月くらいから見て見ぬふりをしてきた僕が抱える最大の問題、それはたぶん自我と自己肯定感の欠如なのだろう。どれだけ人から褒められても本当に一部の機会を除いてお世辞程度にしか思えない。何かを決めろと言われても自分なんかが、と思って何も決めたくない。

高校時代の僕は挫折知らずで自信に満ち溢れていた。自己肯定感もこれ以上ないほど持っていた。だから友達の中ではみんなを先導して率先して色んな事を企画する立場だった。でも今はもう、僕がやってもなあという不安に駆られて足がすくんで動かない。一度喰らった言葉の暴力は僕の有り余る自信を全てどっかにさらって行ってしまった。たった一度、たった一度大切な親友から言われた心無い一言は僕の人生を破壊してしまった。本当はこれも書きながら自分のせいなのに人のせいに責任転嫁している、と冷めた目で客観的に自分を見る自分がいる。自己否定というのは始まるとキリがないのだ。

 

本当に大学に行くのがしんどくて、仮病を使って昨日までは欠席しても単位取得に響かない出席停止にしていたがいよいよ今日から大学に行かなければならない。せっかく実習は楽しいのに大学に行きたくない。欠席を重ねれば重ねるほどどうせ学年ですぐ噂になる。そういう目で見られるのも本当に嫌だ。教室に入る度にそうやって「そういうやつ」扱いされるのは勘弁してほしい。先から述べているうつ病になったときの名残で今でも他人の目が怖い。信頼できるコミュニティ、例えば部活のコミュニティ内なんかはいい人しかいないのが目に見えても人からの話伝いでも分かるからいいのだが、全く新しいコミュニティは本当に怖い。いつ誰からどんな風に見られてどんな風に噂をされているのかが気になって仕方がない。

思えば人からの目を気にして生きてきたのは小学生、いや幼稚園生の頃から変わっていない。幼稚園の年長くらいの頃から今まで生きてきて言われた悪口はほとんどすべて覚えている。覚えていなくとも自分の中でそれは劣化したセロテープの粘着面のようにベトベト僕にくっついていて離れない。僕が上手く笑えないのは小学生の頃に歯磨きをサボって前歯が虫歯になってその治療跡を人に指摘されたからだし、そういう話がいくつもこびりついて今の自分を形成している。

ああ、今日は午後から実習だけどまた寝たら悪夢でも見るのだろうか。大学に行ってしばらく見なかったけど何があったの?みたいな反応をされるのも考えるだけで憂鬱だ。またよく分からないことに誘われたり、よく分からないところで自分の時間を消費してしまうのも嫌だ。断るのにもものすごいパワーが必要だというのに。とにかくまずは昼夜逆転を直したいがそれも既に3時半、時すでに遅し。

本当に何をしても許してくれるくらいの信頼できる人がほしい。僕は自分の話が長い人だからひたすら話を聞いてくれるだけでいい。実際そういう人がいないわけではない。でもそういう人の時間は僕が占領していいものじゃない。既に結構な時間を僕のために割いてくれていて、これ以上はもう頼れない。頼れすぎるからこそこれ以上頼ってはよくない。ここまでの手詰まり感は久しぶりだ。

 

取り敢えずやることを一つずつ消化しなければ。まだ救いなのは楽しい部活動はやれているし、部活を楽しいとはちゃんと感じられている。最悪路頭に迷ったとしても僕には打ち込めることがある。自分でやらなければならないことはちゃんと把握しているし、それぞれどの程度重症かもわかっている。とにかく一日を頑張って生きなければ。生きることを諦めたくなる日もあるがそれこそ親不孝だと思う。どこまでも続く夜の暗闇にふらり惹かれるときもどうにか自分を応援してくれる人の存在を思い出して気を確かに生きていこうと思う。

 

こんな記事を書いたことが1か月後に馬鹿馬鹿しく思えるくらいになれたら最高だ。僕は僕なりに毎日どうにか頑張っているつもりだ。どうか僕の頑張りを誰かが肯定してお疲れ様、ありがとうと声を掛けてくれますように。

Z28mmを買ってからZ50mmの良さを再発見した

blue-pink-sky.hatenablog.com

 

Z28mmF/2.8を購入してかれこれあっという間に3か月。この3か月の間色んな事があり、その傍らにはずっと相棒としてZ28mmがいた。何せZ7を使い始めてからというもの、普段使いしている小さめな斜めがけポーチの中にZ7はすっぽり収まってくれる。しかも以前はZ50mmF/1.8Sを付けて予備でFTZをつけたAF-S35mmF/1.8を放り込んでいたが、35mmを28mmにしてからというもの、バックの中でカメラやレンズが占める体積が更に小さくなり荷物がもう少し増やせるようになった。

それまで50mmを常用で付けていたのが画角的にもボディとの合計サイズ的にも28mmが付くようになり、出掛け先でふとした瞬間に構えるのはZ28mmになった。

 

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<Nikon Z7+Z28mmF/2.8>

 

35mmと28mmでは当然画角が結構異なるので被写体との距離感やパースの付き方などに差があるが、普段パッと思い立ってカメラを向けるのには28mmはすごくちょうどいい。視界に入っている情報をそのまま写してくれるのですごく使いやすい。

 

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<Nikon Z7+Z28mmF/2.8>

 

今までだったらちょっと画角的に厳しいなという大きめの被写体や近い被写体にも対応できてなかなかにいい。そして画質は35mmよりシャープに写るので全く文句はない。

 

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<Nikon Z7+Z50mmF/1.8S>

 

でも。だからこそ。たまにしっかりと撮影したいときに50mmを持ち出すとき、その素晴らしさに感動するのだ。感覚的な話をするなら28mmで撮る写真は非常に記録的で現実を現実として描写してくれる。だから普段使いにぴったりなのだ。でも50mmはどこか印象的に日常を描いてくれる。日常を非日常に変えてくれるレンズなのだ。もう少し感覚から論理に寄せるなら、解像度限界が異なっている気がする。同じように撮影してパソコンの画面で拡大したとき、50mmで撮影したものは線が最後まで破綻せずに描写されているが28mmはある程度まで拡大すると線がドットとして現れる。もちろんこれが普段撮影していて気になるレベルになることはあり得ない。「Zレンズに外れなし」の標語通り、28mmもほとんどの一眼レフ用レンズと比べたら圧勝できるレベルで描写してくれる。でも何となく雰囲気が異なるのだ。

 

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<Nikon Z7+Z28mmF/2.8>

 

さらに感覚で語るなら光の写し方が違うように思う。逆光のときの光の取り込み方?がZ50mmは圧倒的に綺麗。上の写真と下の写真を見比べてみてほしい。

 

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<Nikon Z7+Z50mmF/1.8S>

 

潰すところの潰し方が綺麗。あいにく僕はレンズの物理的な光学特性などには全くもって明るくないのでどういう差がこういった感覚の違いになっているのか分からないがZ50mmは感動させられる画を作ってくれる。僕がそのポテンシャルを引き出せているのかは分からないが。

 

僕は本当は人物撮影が一番得意で、ここ最近は専ら部活のみんなの写真を撮ることが多い。それらはここに載せることが出来ないので非常に悲しい限りだが、本当に大事な撮影では必ずZ50mmを持ち出す。それくらい描写が違うのだ。

 

ここで改めて明記しておきたいが、決してZ28mmの描写が悪いわけではない。そちらも大変素晴らしい写りをしている。でもZ28mmは解像度が高いレンズ、という感じでZ50mmは最高の解像度に加え描写に雰囲気があるレンズといった感じ。

 

実をいうならZ28mmを購入するまで、しばらくずっとメインレンズがZ50mmだったのでその描写に少し飽き気味であった。でも28mmを購入してよく使用するようになってから改めて50mmを付けてファインダーを覗くとそこには全く別世界が広がっているということに気が付かされた。つくづく惚れ惚れしてしまうレンズなのだ。

1点大変不思議なことがあって、一般に望遠レンズになれば手振れの影響が大きくなる。また重いレンズの方が腕にきにくくブレにくい。しかし手持ちの夜間撮影などを行っていて思うのだが、28mmより50mmの方が手振れしないのだ。比較的難しめな上を仰ぐようにしてスローシャッターとかでもなぜか50mmの方が遅いSSでもブレない。一つは28mmは極端に軽いので重心が安定せず、逆にレンズに適度な重さが掛かっている50mmの方が持ちやすいというのがあるかもしれない。でもそれにしても50mmはかなり優秀だと思う。

 

よく掲示板で見かける「Zレンズに外れなし」という言葉、全くもってその通りだと思う。Zレンズの中では最安レベルのZ28mmですら解像度は相当十分なものであるのだから。でもS-Lineと呼ばれる高級ラインにはそれ相応の理由があるらしい。言葉で表現し尽くすことのできない写真の芸術としての側面をより強調してくれるのがSレンズだと僕は思う。しかもお隣のC社さんと違い、Sレンズは8~14万がボリュームゾーンとなっており比較的(あくまでも比較的)買いやすい。こうしてまんまとNikonの戦略にやられ気付けばZレンズが増えていくんだろうなあ。

 

ちなみに今回Z28mmを購入して僕が思ったことは、Z35mmが欲しいということだった。これだけ書くとZ28mmに満足していないみたいな書き方だがそうではなく、Z28mmにはこれにしかできないことがある。その持ち運びの良さ、そのサイズや軽さからは想像もつかない高画質、適度な接写性能、何よりその安さ。やっぱりどんなに画質がよくても持ち運べなくては意味がない。でも28mmを使い、35mmとの画角差も実感した。それにS-Lineの画質でこの画角が欲しいと思ったことも度々あった。だから28mmと35mmは両立できると思ったのだ。どっちも持っているが最適解であるというカメラオタク特有の言い訳である。また、Z28mmの親戚に同クラスのZ40mmがいる。こちらは50mmと画角が被るので購入対象にならなかったが、こちらを購入することはないんじゃないかなあ。どちらかというとお金を貯めて28mmをZ26mmF/2.8Sに更新することには興味あるが。それに実は15-30も売ってしまったのでライブのときなんかに使える広角が欲しい。そうなるとZ20mmかなあ。いやあ高い。つらつら書いていたらZ26mm欲しくなってきました。やばい。

ぐだってきたので適当にまとめるならZ28mmはいいレンズだが、同時にSレンズには高いだけの理由があって適材適所、という感じか。結局のところZの1.8単を全て買い揃えるが一番幸せになれるんだろうなあ。いくらかかるのやら。

 

兎にも角にも一旦物事から少し離れるとそのありがたみや良さを再発見するというテンプレートみたいなことがあったという話でしたとさ。いつも通り中身のない話を書きました。何か中身のあることを書きたいけどなかなか書けるような面白いことがない。毎日は面白いけど別に僕の日記を書いても皆さんが面白いわけでもないし。ブログって難しい。でも自己満9割でこのブログは書いているのでまたダラダラ書きますがな。今夜は全く寝付けないのでこんな記事を書いてみました。それではおやすみなさい。

3年間の空白を埋めるために

今でも世の中に蔓延るコロナ。とは言えようやく以前の日常に近い生活が戻ってきている。

 

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<Nikon Z7+Z28mmF/2.8>

 

 

コロナが流行り始めてからというもの、大学はすべてオンライン、実習ですら必要最低限(と大学が判断したもの)しか行えず、当たり前のように部活やプライベートは消失した。もちろん全ての人類がこの壊滅的な社会と向き合ったのだから、人によっては高校生の方がかわいそうだ、幼稚園児の発育に影響が、などといろんな意見があると思う。それらは全て正しいと思う。時には大学生は学問を修めるのが仕事なのだから別にいいじゃないかとすら言われていた。でも僕は思うのだ、大学で学ぶことは必ずしも専門だけではなくて社会の様々なこともまた学んでから社会人になるものなのではないかと。

 

そもそも実習は簡略化され試験や出席要件は簡単になり授業の質も下がったのだから学問もまともに修めることができたとは言えないし、大学に行って友人や教授と関わりコミュニケーションを取ることもまた勉強であったのにそれが出来ないから色んな事が欠落していった。大学生には大学生なりのしんどさがあったのだ。

 

昨年度中頃から少しずつ(根本的には何も解決していないとはいえ)社会的な風潮がコロナを許容する流れになってきた。これの賛否はともかく、一人一人が最大限気を付けることで人々の社会生活が許されるようになってきたことには間違いない。最初のうちはその変化に適応することが出来ずに逆に狼狽えてしまっていた。何より社会復帰するのが久しぶりすぎて色んなところで細かい問題を感じていた。

 

例えば大学に登校するリズムが作れない。人との話し方を忘れかけていた。部活に戻っても気付けば先輩はほとんど消え知らない後輩だらけ。友達を作ろうにも作り方が分からないしそれができなければ友達もいない。そして一人暮らしとの両立。

 

2年半も部活が再開するのを待ちわびていたのにいざ再開すると本当にアウェー。コロナ禍のオンライン時代にたくさん部活にコミットしていた人たちに僕の枠は完全に奪われ(もちろん彼らはまっとうに部活動をしていただけなのだから奪うなんていう表現は適切じゃないが)居場所がなくなっていた。秋合宿はコロナが怖くて欠席。月に2回程度の全体会に顔を出しても同期は少なく顔も名前も学科も学年も分からない後輩だらけ。どうしよう。

 

当然人に飲み会やご飯に誘われることはほとんどなく、そしてマスクもあって部活に行っても顔が覚えられない。まず誰が何年生かも分からないので話に混ざることも難しい。今さら名札なんてつけてくれないし。毎回部活に参加して覚えられるのは本当にせいぜい一人が限界だった。そもそもの話部活にいなかった間に後輩が40人くらい増えていたのだ。覚えられるわけがない。でも覚えないと僕の部活人生に未来はなかった。

 

じゃあどうしたものかと考えて少しずつとっつきやすそうなところからつついていくことにした。部活終わりの機材片付けに残って仕事をしながら幹部の子と話をしてみたり、誘えそうなときはご飯に誘ってみたり。

また部活内で覚えるだけでなく覚えてもらえるように工夫した。幸いだったのは部活内において僕はパートが特殊で確立されていたために部活内で歌う機会のときにそれの一人パートを任せてもらえたこと。その時点でみんなは少しは僕のことを知ってくれたはずだし、そこに甘えることなく全体練習のときに意識的に全体向けに喋るようにした。またパートの講習会を担当してもいいと部長に声をかけて講座をやった。こういうことが少しずつ功を奏したようでベース(僕の担当パート)のお兄さん、くらいの認識はもらえたような気がする。

 

それでも年明けくらいはまだまだアウェーで少しずつ認知はされてきていても飲み会に参加するような気分にはなれなかった。うちの部活ではライブをやるとその後は飲み会で打ち上げが定番だが(ちなみに飲み会は信じられないくらい治安がいい)1月末にあったライブの帰りは打ち上げに参加せず一人ぽつりと帰宅した。飲み会にあまり知らない先輩がいたら周りも余計な気を遣ってしまって楽しめないだろう。

 

転機が訪れたのは1月30日、この日は1月上旬に後輩から唐突にLINEが来て「ご飯に行きましょう!空けといてください!」と言われていた日であった。めちゃくちゃ話したことがあった後輩でもなかったので(もちろん普通に話したことはあったが僕がコミュ障すぎてあんまりまともに話せなかった、しかもその子はすごくかわいいので男子校出身には壊滅的)普通にびっくりしてなんだろう・・・とモヤモヤしながら1か月を過ごした。

実際に当日ご飯に行ってみると何やら本題はバンドのお誘いらしかった。部活内の活動に注力するのではなく本気で外部のライブを目指すというバンド。つまり実力を認めてもらって誘ってもらえたということ。とっても嬉しかったのをよく覚えている。そしてこれがどう転機だったかというとこのときにバンドに誘ってくれた後輩二人とこの後非常に仲良くなるのである。しかもその二人は大変顔が広いためそこら中に人脈も増えていくのであった。僕が本当は色々な会(遊びでも飲み会でもご飯でも)に行きたがっているのを察して色々誘ってくれるようになったのだ(まあもう少し後、6月か7月の話だが)。

 

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<Nikon Z7+Z28mmF/2.8>

 

この転機も含めて12月くらいから5月くらいにかけては定期的にバンドに誘われるとかなんなりで少しずつではあったが知り合いが増えていった。後輩だらけの部活でもどうにか生きていく活路を見出していった。そうこうしているうちに4月、5月の新歓期を迎えた。5月の新歓合宿ではまだあまり話したことのなかった2,3年生の後輩と話をする機会があった。6月には新人として1年生がなんと30人ちょっとも入部してくれた。逆に言えば30人も顔と名前を覚えないといけないし、なんなら30人に認知されるのはかなり至難の業である。

 

7月には入部してくれた1年生がメインの新人ライブが控えていた。1か月ほど1年生を交えたバンドで練習しステージに立ってもらう、言わば初心者向けライブ体験会のような機会である。と言っても1年生が多すぎて各バンド1年生が2~4人いる状態(1バンドは6人)で10バンドもあったのだが。

ここで僕は考えた。この時点でまだちゃんと話したことや関わったことのない後輩は1年生だけではなく2年、3年生にも残っていた。そういう後輩を部活の先輩として育てつつ認知してもらい仲良くなれる機会なのではないか、と。僕は自分の新人ライブバンドとして2バンド参加していた(上級生かつ男子は少ないので掛け持ちの形になった)がそこでもみっちり練習してその後ご飯に行くなどして親交を深めていった。それに加え後輩を育てるという名目で(もちろんちゃんと育成もしたが)色んなバンドの練習に顔を出し後輩をご飯に連れていった。結局ライブまでに10バンドあって7バンドは練習を見に行ったバンドになった。これだけで1年生は2/3くらいはまともな会話をしたことある人になったし、2年生もちゃんと関わったことなかった人と話すことが出来た。

 

そうこうして気付けばもうそろそろ1年が見えてくるが部活動が再開した昨年の秋以来、地道に色んなところで自分を売り後輩を覚えるという些細なことを継続した結果、今の僕には仲良くしてくれる後輩がたくさんいる充実した生活がある。7月は部活動に全てを捧げて生活していたので31日中予定がない日は3日しかなかった。8月も本来であればぼっちで寂しく過ごすはずだったのに一緒に遊びに行ってくれる友達ができたおかげで浴衣を着て遊んだり納涼船に行ったり飲み会もしたりと適度に忙しい日々を過ごせている。

 

大学生の間、ここまで僕は3年間空白の人生を送ってきた。本当に3年間空っぽで、何をしながら過ごしてきたのかももはや分からないような日々だった。でも救いだったのは僕が大学生活が7年間もあるということ。4年既に消費してしまっていてもまだ半分ある。この空白の3年間の代わりに今から青春を始めるのだ。今じゃなきゃ出来ないこと、今全部やっておきたい。悔いは残したくない。そのためにもやりたいことに付き合ってくれる友達がいてくれるのは本当に有難いこと。飲み会したいと言えば来てくれる後輩がいて、バンド組もうと声を掛けたら二つ返事で快諾してくれる後輩がいて、特に祭りや花火はないけどただ浴衣を着て横浜をうろつこうと言ったら本当に一緒に浴衣を着てくれる後輩がいて、この人と話してみたいんだよねと言ったら会をセッティングしてくれる後輩がいて。本当に僕の幸せな毎日は周りの人のおかげで成り立っている。今回は大学の後輩の話だがもちろん同期も先輩も趣味の友達も高校の親友もだ。一人で花火を見て帰る途中にBMWのオープンカーに拾われて深夜埼玉までドライブをするなんてバカみたいなこと、一緒にバカやってくれる友達がいなかったらできないし、一生ゲームやってバカなこと話してキャッキャ騒ぐなんてこれもお互いに時間があって仲良くないと絶対できない。細かいエピソードは書けばキリがないが色んなところで僕は周囲に支えられて生きているのを実感する。

 

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<Nikon Z7+Z28mmF/2.8>

 

少しでもいつか恩返しがしたいが今は何より僕と一緒に過ごしてくれる時間が相手にとっても楽しくて幸せなものであることを祈るしそうなるように僕も精一杯努力をしたい。本当ならここに先日浴衣で横浜をうろついたときの自分の写真でも載せたいところだがここはインターネットの海、さすがにやめておこう。

8月もまだギリギリ上旬くらい、夏休みは8月末で終わっても僕の夏は9月まで続く(気持ち的に)。やりたいことは全部やろう。今年やらないときっと後悔する。バカでもバカにされてもアホだと思われても子どもっぽいと思われても関係ない。だってバカだしアホだし子どもだから。よーし、夏の終わりまでひとっ走りするぞ~~~~~!

カメラとぼく

カメラ(英: camera、独: Kamera)は、写真(や映像)を撮影するための光学的な機械や装置。 写真機(しゃしんき、寫眞機)ともいう。

(Wikipediaより引用 Wikipedia「カメラ」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9 2023年7月18日閲覧

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カメラとは光学的な特性を利用して写真や映像を残すための機械。シャッターを切ることで撮像素子やフィルムに光が当たって写真というデータが生成される。レンズを通して見える世界は当たり前だが僕たちの見るこの世界そのものである。

 

 

 

ちょっと個人的な話。

僕が初めてカメラを持ったのは小学1か2年生の頃。もう亡くなった祖父からNikonのコンパクトデジタルカメラを貰ったのがはじまりだった。それ以来旅行やらお出かけのときは首からカメラケースが下がっているのが定番になった。最初はだいたい食べ物の記録に使っていたような。

それ以来NikonNikonCanonコンデジを使いつづけていたものの、より高画質が欲しくなり一眼レフの購入を決意。中学2年生のときにそれまでの貯金とお小遣いを前借する形でNikon D5300を購入。そこから無限のカメラ沼に転落し最初はAPS-C入門機にキットレンズだったのがD750にΣやTamronのレンズ、70-200と順調に増えていき最終的に大学2年の頃バイト代を30万円はたいてNikon Z 7とZ50mmF/1.8Sを購入。これが今の僕のメイン機材になっている。

 

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これまでカメラと周辺機器(XQDや現像環境としてのPC、防湿庫など)に掛けた額は100万円越え。もちろん上には上がいるので(HasselbladやLeica、GFXやPhaseoneなど)そっちはキリがないが一般アマチュアにしては相当のめり込んでる方だと思う。人生において切ってきたシャッターの回数は25万以上。D5300のときに10万ちょっと、D750で12万弱、Z7で3万くらい。これだけカメラ・写真という趣味をやっているとカメラは僕にとってただの写真を残すための機械ではなくなるのである。

 

一流のスポーツ選手が自分の道具に信頼を置くように、僕にとってのカメラは道具であり自分の一部分である。もちろんレンズも一緒に。

大学生になってから念願だった単焦点レンズを買いそれまでは「何でも対応できる」をモットーに使ってきた大三元小三元の標準レンズ(Σ24-105/4AやTamron24-70/2.8VC)をやめ35mmや85mm、50mm、時には75mm(Sigma dp3の換算)の単焦点レンズに親しんできた。単焦点を使うようになってからというもの、その画角が自分の「目」となっていく感覚が強くなっていった。モノを見るときはどの焦点距離の画角かを考えるようになっていった。

 

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僕にとってカメラやレンズは体の一部分なのだ。僕が写真を残すのはもちろんシャッターを切るのが楽しいからだし、撮った写真を人に見せれば喜ばれたり褒められたりするからでもある。でも一番の理由は僕にとって写真は外付けハードディスクなのだ。写真に残したことは何年経っても鮮明に思い出せる、だからこそ忘れたくない大事な瞬間は必ず写真に収めたいのだ。そのために何年もかけて最高の機材を用意したし、腕や知識も身につけてどんな瞬間でも写せるようにした。言わば消滅しない容量無限の外付けハードディスクとどんな場面も一瞬でドラマティックにできるポテンシャルを持つ最高の目を用意したのである。

 

僕は今カメラボディを3台、レンズを8本所有している。どのボディもどのレンズも僕にとっては大切な体の一部分。実は直近、お金がなさすぎてレンズを2本売却した。どちらも性能的に不満が無いわけではなかったが、大切な宝物であったことには変わりない。特に片方のレンズはもう何年も飽きっぽい僕の相棒をしてくれていたレンズ、言うなれば片目を失ったような気持ちである。

 

冷静に考えてレンズをそんなに持っててどうせ一度に全部使うことはないでしょと言われたらそれはそう。特にボディなんて現在本務機を務めているZ7以外はもう何年も触っていない。それでも僕が未だに使用頻度の低い道具たちを手放せないでいるのは長く一緒に大切な時間を過ごしてきたから。

 

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レンズやボディはそれぞれの個性がある。言わばそれぞれの「目」によって視力の良し悪しがあったりカラコンをしている子がいたりとそんな感じ。同じ焦点距離のレンズだからと言って同じように写るわけでは全くない。例えば僕はZマウントのZ50mmF/1.8SとFマウントのオールド、Ai-S50mmF/1.2を所有しているがこの2本では写される世界が全く異なる。すっきりとした言うなれば写実的なZ50mmに対して独特な世界観を作り出すAi-S50/1.2、のような感じ。カメラボディの画像処理ではなくレンズ特有の色の出方みたいなものもあるのである(細かい話これは時代によるコーティングの変化などが原因だが)。

まあだから、その日の被写体や気分によってレンズをとっかえひっかえするのは我々が髪型を気分で変えたり服装に合うアクセサリーを身に着けたりするようなものであるということだ。

 

人間が自分たちの健康に気を遣うように、僕もまた体の一部分であるカメラやレンズたちを大切にしてあげなければならない。そうでなければカビが生えたり内部機構が壊れたりしてしまうのである。正直なことを言うと高校生や大学生の初めの頃はあまりレンズを大事にしていなかったと思う。カビを生やしたこともあった。だからこそ今は立派なお家である防湿庫を買ってその中で快適に暮らしてもらっているのだ。

 

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僕にとってカメラはアイデンティティであり趣味であり外界とを繋ぐ手段であり外部記録である。自分が何を見ているのか、その視点が表現されるものなのだ。だから僕はこれからも自分の「目」を通して見える景色を記録し続けるし、そのために必要な大切な相棒であるカメラやレンズは誰よりも大切にするのだ。

ストレス

誰かと相性が悪いと思ったことはないだろうか。

 

そりゃ人間生きていれば相性の悪いような人と出会うことの一度や二度くらいあるだろう。でもそれが積み重なって経験からなる先入観やバイアスになってしまったとき、本当にどうしようもなくなってしまうのである。

 

最近大学のカリキュラムの一環で研究室に配属されたのだが、どうにも人間関係が上手くいかない。否、上手くいっていないわけではないので正確に言えば「上手くいっていない気がする」であろう。

 

僕は大学に入った頃からあまり上司というものが得意ではないらしいということに気付いた。バイト先の上司とは口論になったし、先輩の前では恐縮してしまい可愛くない後輩だったし、大学の先生とはトラブルを起こしたし、運転免許を取りに行ったときは教習車の中で口論になったこともあった。一言で表すなら社会不適合だと思う。

 

こうした諸々の積み重ねで目上の人がどうも苦手になってしまったらしい。特に理系の研究室は学問の道、みたいな人が多く感情が読みにくい。しかも僕は他人の感情の動きに非常に敏感であり、ちょっとした瞬間に不快そうな顔をされると気が付いてしまう。だからただでさえ目上の人が得意じゃないのにそこに加え何かをしてしまったときの相手の反応を見るだけでとてつもない罪悪感に苛まれるのである。

 

これはちょっと余談なのだが、どうやら僕は他人の心情を読み取るのが他の人より少しばかり得意らしい。話をしていて相手が一瞬でも不快そうな顔をしたらその話題はすぐに避けるし、会ったや話している最中に相手がどの程度疲れているか・元気かが分かる。こんなことが特技らしい。そのせいで後輩に怖いとか言われてるとか言われてないとか。

 

ともあれ、僕は研究室に配属された直後のこと、不運にも体調を崩して2週間ほど研究室を欠席したのであるがその後くらいから僕の監督をしてくださっている先生や先輩の視線が気になるようになった。少しずつ気まずさを覚えつつも毎日登校していたのだが、徐々に朝起きるのが辛くなり、登校時間を5分ほど遅らせることで気を紛らわしていた(何のこと?って感じかもしれないが「まあ5分遅れても行かないよりマシだし頑張って行こう」という思考で多少しんどくても登校できるのである)。しかしそんなこんなしているとある日先生からきちんと定時に登校するよう注意を食らってしまった。これは世間一般的に考えるなら超当たり前のことを指摘されただけで何もおかしなことはないのだが、社会不適合には結構堪えるのである。

この一連の流れは実は沢山の不運と選択ミスによって成り立っている。まず最初の欠席が親友からヘルプが飛んできてそっちを優先してズル休みをしたこと(別に一つも後悔はしてないけどこれでリズムを崩したのは本当)。そしてズル休みをしたら本当に体調を崩したこと。体調が治った後も別の親友が心配で夜中の空いてる時間をそっちに費やしたこと(これも後悔はないが日中は研究室+部活動で疲れ切っていたところに睡眠不足が足されたので余計に朝起きるのが物理的にしんどくなった)。そして僕の担当の先生や先輩が偶然にもその人たちだったこと(同じ研究室に通う友人は別の部屋配属であり、そっちなら登校時間が多少遅くても怒られることはなかっただろうし先生も先輩も別の人だっただろう)。そして最後に僕の頑張るモチベが切れつつあること(他人にしか頑張るための目的を見出せないのでその理由が見えなくなるとガス欠を起こしがち)。

 

で、結局どうなったかというと絶賛しばらくのお休み中である。そんなに長い期間あるわけでもない研究室配属だというのに折角の機会を無駄にして毎日家でグダグダ過ごす日々が続いている。

普通にブログを執筆するくらい元気なはずなのだがどうしても研究室には足が向かないのだ。人間関係に敏感な僕にとって配属先の人間との相性が微妙に感じられるのは結構な致命傷。じゃあかといって今から先生を変えてほしいとか期間を延ばしてゆっくりやらせてほしいとかそんなことを言えるかと言われるとそんなわけもなく。

でも経験上こういうときに何もしないのはダメだと分かっているので部屋を片付けたり生活の立て直しを図るために自炊をしてみたりしているのだが。

 

たぶんこの記事を読む人の95%は僕が何を言っているのか理解できないだろう。普通の人には理解できない話だと思う。でもたぶん世の中には僕みたいな人がほんの少しいて、たぶんそういう人たちはほんの少し他の人より生きづらい毎日を送っている。社会生活から取り残されてしまうような人たちは何も別に自らそういう道を選択しているのではなくそれしか選べないからその道を選んでいる。

 

にしても、どうしたものかなあ。週明け火曜日から登校するつもりだったのだが本当に気が進まない。研究室のことを考えると体が拒否反応を示す。楽しいことだけやって生きていきたいなあ。どれもこれも、きっとコロナがなかったらこうはならなかったと思うのだが。